西ヶ原一里塚
地下鉄南北線の西ヶ原駅の改札の壁の
パネルに江戸時代の旅人の姿が
描かれています。
昔は車もなくほぼ徒歩での移動だった
ワケで長距離移動はさぞかし大変だった
ことでしょうね。
🤔😅😫
江戸幕府が交通路としての整備を
はかるために設置した塚が置かれそこには榎が
植えられていたそうです。
江戸時代の日本版マイルストーンとでも
言うんでしょうか
🤔🧐😁
そんなものが今でも残ってる道を
私はある神社を目指して田端方面に歩いて行くと
大きな石の社号標が出迎えてくれました。
その奥に社殿が見えます。
興味はあったものの
今まで足が向かなかった神社。本当は
その先の王子にある王子稲荷へ行こうと
思ったのですが、太田道灌公の足跡を
辿る私としては今回王子の手前でここに
来ることを決断しました。
って
なんか大袈裟に書いてますが😅
王子稲荷には何度も行ったことがあるので
今回は初めて行く神社を選んだワケです
😅😁😅
でも
なんで足が向かなかったのかというと
この神社は道灌公によって滅ぼされた豊島氏
側の居城跡であり、なんか道灌公ファンの
私としてはなんか行っても大丈夫かな?
って心のどこかでちょっと不安が
あったんです。
神田明神を参拝したなら成田山新勝寺に
参拝してはいけない的みたいな感じかな
🤔🤔😅
でも
道灌公が勝ち戦をした場所って
思うと、今の職場から遠く離れた
職場へ来月から応援に行くことになった
私。遠い職場でも勝ち戦的に仕事が
遂行できるようにと験担ぎも兼ねて
今回思い切ってここまで来ました。
🤔😁😁
⭐平塚神社⭐
木の小さな鳥居
神社の大きさを考えるとなんか
寂しい感じがしますが
このサイズでなきゃいけないワケが
あるのかな?って思ったり
🤔🤔
手水舎では水がちゃんと流れていて
地元の人々のこの神社への信仰心を
感じます
😁😁
御祭神は
源義家ー八幡太郎
源義綱ー加茂次郎
源義光ー新羅三郎
源氏の三兄弟スーパースターが
祀られています。
奥州征伐の凱旋途中に義家公は
この地を訪れ、この地を治めていた
豊島氏に自分の鎧をあげたんだそうです。
豊島氏はたいそう喜んでもらった鎧を
土に埋めて塚を作り自分の城の守り神として
祀ったそうです。
甲冑塚(非公開)と呼ばれこの神社の
御神体となっているそうです。
その塚が塚というにはあまり高さが
なかったので平塚と呼ばれたそうです。
また
豊島氏が社殿まで作って
3人のスーパースターを
⭐平塚三所大明神⭐
として祀って一族の繁栄を願ったのが
この神社の始まりなんだとか。
それだけ八幡太郎という
ネームバリューはその当時凄かったので
しょうね。
鎌倉時代から室町時代へと変わり
徐々に戦国時代入っていく時に
上杉氏の家臣だった道灌公によって
豊島氏は滅亡することになります。
激しい戦の場となったのでしょうね。
でもここにはそういったダークな
ものは全く感じずむしろ
潔さ
諦め
固執しない
飾り気のない男らしさ
のようなものを感じます。
拝殿には龍が施され鈴が風鈴のように
垂れ下がっていました。
コロナの前はそれぞれに紐がついていた
ようですね。
🤔🤔
日の丸の扇が
お賽銭箱と拝殿屋根の瓦にも
ここは男の試練の場
なのかも知れません。
🤔🤔🤔
境内には
⭐菅原神社⭐
頭の重そうな社です。
道真公に大己貴命、そして
豊島太郎近義命を祀っています。
神牛像はこそなかったものの
絵馬にはちゃんと牛が描かれて
いました。
そのお隣には
稲荷神社が2社
⭐御料稲荷神社⭐
⭐大門先・元稲荷神社⭐
共に保食神を祀っています。
そして小さな狐さんの石像に
陶器の白狐さんが共に置かれています。
⚡⚡
どっちつかずになっていないか?
手を伸ばして掴み取らないと
いつまで経っても
思っていることは叶わない
行動しろ!!
⚡⚡
って狐さんからのメッセージが
降りてきました。
やっぱ狐さんに呼ばれたのかな
🤔🤔😁😁
⭐石室神社⭐
豊島氏の後にここの城主になった
蘓坂兵庫頭秀次も平塚大明神を
手厚く祀ったそうなんですが
没後なんと秀次のお墓の周りには毎年
米が降るようになり
😳😳
村の人々は秀次を
石神明神として祀るようになった
って言うんです。
米が降るって一体
どういうこと?
🤔🤔🤔🧐
って感じなんですが
奇妙なことを起す石の祠。
天変地異から救ってくれる
力があるっていうことです。
それに滝野川公園のこの女性の銅像
どんな意味があるのかな?
って
ちょっとしたミステリーを感じた
私なのでございました。
🤔🤔😁😁
観音様とのお約束です。