昭和29(1954)年から翌年にかけて、春日八郎の唄で大流行したのが「お富さん」です。このレコードは125万枚も売れ、連日ラジオから流れて、当時は小学生でも「死んだはずだよお富さん」などと歌っていました。

 

 粋な黒塀 見越しの松に
 仇な姿の 洗い髪
 死んだはずだよ お富さん
 生きていたとは お釈迦さまでも
 知らぬ仏の お富さん
 エッサオー 源冶店

 (詞:山崎正 曲:渡久地政信)

 

 一番の歌詞です。この唄は歌舞伎の「与話情浮名横櫛」(よはなさけうきなのよこぐし:三代目瀬川如皐作。嘉永6・1853年江戸中村座で初演)に題材をとっていて、お富さんと元恋人の与三郎が偶然再会した場面です。

 

     ↑初演時の役者絵。八代目市川團十郎の与三郎と四代目尾上梅幸のお富

                  歌川豊国・画(wikipedia より)

 

 歌舞伎のストーリーは複雑なので省略しますが、お富さんと与三郎は木更津の浜で九死に一生を得るような目に遭い、お互い「死んだはず」と思っていたのです。

「 源冶店」(げんやだな)というのは、二人が再会した地・江戸の高名な医師・岡本源冶の邸があった一帯の地名で、今の中央区日本橋三丁目付近にあたるのだそうです。

 

    

   「 源冶店」記念碑(wikipediaより)

 

 お富さんと与三郎は、いろいろな経緯はあったものの、再び一緒になるという道行きを選びます。四番の歌詞です。

 

 逢えばなつかし 語るも夢さ
 だれが弾くやら 明烏(あけがらす)
 ついて来る気か お富さん
 命短く 渡る浮世は
 雨もつらいぜ お富さん
 エッサオー 地獄雨

 

 複雑な歌舞伎のストーリーを歌謡曲にする、という発想を誰がしたのか知りませんが、これが当たったのは、やはり春日八郎の歌唱力によるのではないでしょうか。

 

 

 春日八郎は1924(大正13)年福島県会津坂下町に生まれ、1939(昭和14)年15歳の時上京して歌手を目指したのですが、なかなか芽が出ず戦時中には召集されたりして苦労しました。1952(昭和27)年「赤いランプの終列車」がヒットし、ようやく流行歌手への仲間入りを果たします。そしてその地位を不動のものにしたのが、「お富さん」の大ヒットでした。

 なお、前回投稿した「弁天小僧」(唄・三浦洸一 1955・昭和30年)は、「お富さん」のヒットにあやかろうとして作られた歌舞伎ネタの第二弾だったことを今回調べて初めて知りました。

 

 春日八郎が亡くなったのは1991年10月(67歳)ですが、葬儀の最後に参列者が「お富さん」を大合唱したのだそうです。会津から上京した無名の青年が流行歌手として大成し、1989年に「紫綬褒章」を受章するほど一時代を画したのですね。その代表曲が「お富さん」だったのです。

 

 私の子ども時代の思い出として残っているのは、町内の「地蔵盆」のとき、青年団の男女が揃いの浴衣を着て「お富さん」のレコードにあわせて舞台の上で踊った場面です。振付けは既存のものがあったのか、青年団の人が創作したのか、今となっては分かりませんが、当時小学校低学年の私は、その踊りをひたすら眩しく眺めていた記憶が残っています。

 あの頃町内には小学生がいっぱいいて(団塊世代)、地蔵盆(京都の夏祭り)は大変活気がありました。大人たちが子どもたちにサービスする二日間(8月23・24日頃)で、おやつをもらったり福引きがあったり、夏休み最後の楽しみでした。

 今は、地蔵盆会場だった八雲神社跡も草茫々の空地になり、寂しい限りです。

 

 

 自分が生きている間にこのような変転があるのか・・・。子どもの頃は思ってもみませんでした(-_-;)(-_-;)