「昭和歌謡」テーマでの記事、5本目になります。

昭和30年代に入る頃から、日本経済は高度成長期に入っていきますが、この時期に生産現場を支えたのは、地方(農山漁村)から都会・特に東京大都市圏に働きに出た若い人たちでした。

この頃から都市は過密、地方は過疎という人口の偏りが急速に進行していくのですが、その過程で地方で多発した「別れ」を題材とする多くの歌謡曲が流行しました。

例えば、昭和30年「別れの一本杉」(春日八郎)、昭和31年「哀愁列車」「リンゴ村から」(三橋美智也)、昭和32年「柿の木坂の家」(青木光一)・・・。

 

「別れの一本杉」の歌詞は次のようなものです。

 

作詞、高野公男 作曲、船村徹

 

泣けた泣けた こらえきれずに 泣けたっけ

あの娘(こ)と別れた哀しさに

山のかけすも鳴いていた

一本杉の 石の地蔵さんのョ 村はずれ

 

呼んで呼んで そっと月夜にゃ呼んでみた

嫁にもいかずに この俺の 帰りひたすら待っている

あの娘はいくつ とおに二十歳はョ 過ぎたろに

 

 

「リンゴ村から」

覚えているかい 故郷の村を 便りも途絶えて幾年過ぎた

都へ積み出す 真っ赤なリンゴ 見る度辛いよ

おいらのナ おいらの胸が

 

覚えているかい 別れたあの夜 泣き泣き走ったプラットホーム

上りの夜汽車の 滲んだ汽笛 切なく揺するよ

おいらのナ おいらの胸を

 

 

前者は、好きだった女性と別れ、男性が都会にいるというシチュエーション、後者は女性が都へ行き、男性は「リンゴ村」に残っているという設定ですね。

 

昭和32年にヒットしたのが、青木光一が歌った「柿の木坂の家」です。

作曲・船村徹、作詞・石本美由紀

 

春には柿の花が咲き 秋には柿の実が熟れる

柿の木坂は 駅まで三里

思い出すなァ 故郷のョ 乗合いバスの悲しい別れ

 

春には青いメジロ追い 秋には赤いトンボとり

柿の木坂で 遊んだ昔 

懐かしいなァ しみじみとョ 心に還る幼い夢が

 

春来りゃ 偲ぶ馬の市 秋来りゃ 恋し村祭り

柿の木坂の あの娘の家よ 逢ってみたいなァ

今もなおョ 機織りながら 暮らしていてか

 

 

 

「別れの一本杉」を作詞した高野公男は、1930(昭和5)年生まれでこの唄がヒットした1955年には25歳でした。若手作詞家として売り出したばかりでしたが、肺結核に罹り、翌1956年に亡くなってしまいます。

当時は、肺結核は死に至る病だったのですね。

 

私の父も、1958年に55歳の若さで肺結核により亡くなりました。

 

歌手の青木光一は1926(昭和2)年生まれで高野公男より年上ですが、今も存命で、91歳の時歌った動画があります。

 

 

「足が痛い」と言って座っていますが、伴奏が始まるとすっと立って歌うのはさすがですね。あと少しで100歳なので、元気でいてほしいと思います。