あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新年幕開け早々、能登の地震や羽田での事故など、良くないニュースが伝えられましたが、これでピリオドを打って、暫くは平穏な時が流れてほしいですね!

 

 お正月に高校時代の同期生7人の新年会を何十年も続けていて、ここ2~3年はコロナやメンバーの体調不良などで全員は揃わなかったのですが、今年は何年ぶりかでフルメンバーで集まることができました。

 新年会の会場はこの十何年間、木屋町二条下がるの「がんこ二条苑」と決まっています。ここは明治の元勲山縣有朋の別邸・第二無鄰菴だったところで、庭園のなかを鴨川(分流のみそそぎ川)から取水した高瀬川の源流が流れています。

 高瀬川は、江戸時代初の1611年に角倉了以らによって開削された運河で、当時は伏見港から米や酒・木材などの物資を京都中心部まで運ぶ重要な物流路でした。

高瀬川に沿う南北通は木屋町通ですが、高瀬川に沿って「木屋」=材木商が建ち並んでいたのですね。

 今は、水深がごく浅く、せせらぎ程度の水が流れているだけですが、京都の中心を流れる川だけに景観上は重要な要素になっています。

  

 

 これは御池通から少し上流(北)へ行ったところですが、右岸側に佐久間象山と大村益次郎の遭難記念碑が建っています。

 

 

 幕末期の京都では、新撰組などが暗躍し斬り合いがよくあったことは知られていますが、佐久間象山は「攘夷派」の刺客に襲われ、大村益次郎は何と明治になってから「不平士族」にやられたのですね。

 上の写真の左側が大村益次郎、右側が佐久間象山の遭難碑ですが、何故か中間に頑丈なコンクリートの壁があり、その上には鉄の忍び返しもあって行き来出来ないようになっています。何か理由があるのでしょうか?

 

 さらに北上すると・・・

 

 

 史跡・高瀬川一之舟入です。「舟入」は、舟溜りのことで、かつては幾つもあったのですが、今残っているのは、この一之舟入だけです。

 舟が一艘係留されていて、かつて運んでいた米俵や酒樽が積まれていますが、一艘だけなのでかえって侘しい感じもします。  

 南側から見ると・・・

 

 

 右前方の木立の向こう側に見える石垣のところが「がんこ二条苑」です。

 左(西)側に分かれる水路がありますが、これが一之舟入に入る水路です。

 

 

  今は鉄柵で入れないようにしてありますが、その向こう側にも水面が続いているのが分かりますか。ここにかつては多くの舟が出入りし、荷の上げ下ろしがされていたのですね。

 新年会までまだ少し時間があったので、上の写真のさらに南側の道路(押小路通)を西へ歩いてみました。


 

 なかなか風情がある通りですね。一之舟入はこの家並みの裏(北)側になります。押小路通をさらに西行すると、河原町通に出ます。 そこには・・・。

 

 

 島津製作所の旧本社ビルがリニューアルされ、フォーチュンガーデンキョウト という結婚式場になっています。このビルは1927(昭和2)年に武田五一の設計によって建てられた近代建築で、縦長の窓が特徴的ですね。

 島津製作所は京都の仏具屋の息子だった島津源蔵が1875(明治8)年に創業し、理化学実験器具などを造っていたのですが、1895年に蓄電池部門を独立させました。これが今の日本電池(GSユアサ)で、車のバッテリーなどに記されているGSというロゴは、Genzo Shimazu の頭文字が由来だそうです。

 なお、島津製作所創業の地は、高瀬川一之舟入のすぐ北で、そこには木造の旧社屋が改装され「島津製作所創業記念資料館」になっています。

 

 

 有料ですが、なかなか見応えのある展示物が多くあるので、お勧めです。

  

 このあたりをブラブラしているうちに新年会が始まる時間が近づいたので、「がんこ二条苑」に向かいました。