洛西竹林公園に行ってきました。

昔、洛西ニュータウンに住んでいたので、子どもたちが小さかった頃何度か連れて行きましたが、今回久しぶり(通りすがりでしたが)の再訪でした。

このあたりは向日丘陵の西斜面にあたり、昔から竹藪が多かったところです。都市近郊なので、近郊農業としての筍(たけのこ)生産が盛んになり、向日丘陵は今や最高級筍の産地になっています。

しかし1960年代から、京都市街地での人口増に対応するため、元々もっと広大だった竹藪を伐採して洛西ニュータウンが造成されたので、竹林の保全・記念事業として1971(昭和56)年に洛西竹林公園が開設されました。

 

一口に竹といっても多くの種類があるようで、ここには約110種類もの竹・笹類が生態展示されています。


 

 これは北入口を入ったところに植わっている金明孟宗という品種です。金色の地に縦に緑の線が入っています。根元にきれいに咲いているのはシャガですね。

 

 

 「竹の資料館」には、竹に関するいろいろな資料や竹製品などが展示されています。

 エジソンが発明した電球(竹製のフィラメント使用)も置かれています(写真正面奥)。

 

 

それから、竹の生態展示だけではなく、京都の歴史的遺構・遺物もいくつか庭園内に移設・展示されています。

これは堀川の支流・小川(こかわ)に架かっていた百々橋(どどばし)です。

案内板に書いてありますが、応仁の乱の発端になった1467(応仁元)年5月の戦では、この橋を挟んで細川方(東軍)と山名方(西軍)が激しく戦いました。

この石橋は明治40(1907)年に架けられたものですが、昭和38(1963)年に小川が暗渠化された後この地に移設されました。

私は小川が流れていたのを憶えています。一条戻り橋のところで堀川と合流していましたが、その頃は染屋が流した染料?などで色がついた水が流れていた記憶があります。

応仁の乱の頃は、小川の水は斃れた武士たちの血で染まったのではないでしょうか。

 

 

  歴史的遺物の展示は他にもあります。

 織田信長が入京後、将軍足利義昭のために今の下立売烏丸付近に築いた旧二条城跡から出土した石仏群です。 

 これらは主に石垣の石材として使われていました。フロイスの『日本史』には、信長は民衆が信仰していた石仏を何の躊躇もなく石材として使わせたので、人々は怖れをなした、というようなことが書かれているようです。信長らしい所業ですね。

 

 

 

 ところで、洛西ニュータウンは近年人口減が始まり、高齢化率も高くなる一方で、街としての転機を迎えています。

私が入居したのは三〇代前半でしたが、ご近所も同じような年齢層の人が多く、子どもも次々に産まれて活気がありました。まだ自治会がなかったので、近所の同年配の人たちと語らって自治会を創設し、夏祭りをはじめいろいろな行事を企画・実行しました。

西山の金蔵寺(こんぞうじ)横にニュータウンを見下ろせる小さな台地があり、そこまで登って行ってバーベキューをし、ビールを飲んだりしていました。

しかし、同年代の人たちが多いということは、そのまま年月が経過すれば街も老いていくということです。家の娘たちが通った小学校も、児童数減のため隣の学校と統合され、来年廃校になります。洛西ニュータウンがこのまま衰えていくのか、それとも若い世代の人たちが再流入して若返りを果たせるのか、今はその分岐点にさしかかっていると思います。

 

竹林公園は、私が昔幼い我が子を連れて行ったときとあまり変わらない雰囲気でした。

これをどう評価するのか、難しいところです。

しかし、元々の良さを残しつつ、時代に即応してリニューアルしていかないと、ニュータウンも竹林公園も、同じような衰退の道を辿ってしまうおそれがあるような気がします。

 

     京都市洛西竹林公園

     休園日 毎週水曜日、年末年始。

     入園料 無料。

     開園時間 午前9時~午後5時(入園は4時まで)。