前回の続きです。

太秦広隆寺から、雨あがりの道を大酒神社に向かいました。このお社は、元広隆寺の中にあった鎮守社でしたが、明治初の神仏分離令のため北東の隣接地に移されたのです。広隆寺からは一旦山門を出て、お寺の東側の塀に沿ってしばらく歩くと、こじんまりした大酒神社の境内があります。


 

 

 

このお社の祭神は、秦始皇帝・弓月君・秦酒公。相殿は兄媛命・弟媛命(呉服女、漢織女)と由来書に記されています。渡来氏族・秦氏は秦始皇帝を遠い祖先であるとしていて、弓月君は最初に朝鮮から一族を率いて渡来した人物、秦酒公は弓月君の孫で養蚕、機織を広め、朝廷に絹織物をうず高く献上して禹豆麻佐(ウズマサ)の姓を賜った人物とされています。

要するに、秦氏の先祖を祀った宮ということですね。

秦氏の「最有名人」である秦河勝は、秦酒公から六代目の子孫とされているので、河勝の代ぐらいにこの社が祀られた可能性があります。広隆寺も、河勝が聖徳太子から弥勒菩薩像を賜ったときこれを本尊として創建した「蜂岡寺」が前身とされているので、それと関係があるのでしょう。

もっとも、蜂岡寺は「北野廃寺」(北野白梅町にある大規模な寺院遺構)がその跡だとの説が有力で、現在の広隆寺はそれが後に移転したものか、あるいは元からあった秦氏の氏寺なのか、諸説があるようです。

大酒神社のお祭りは、10月10日に行われてきた「牛祭」です。これは京都三大奇祭の一つと言われ、謎めいたお祭りです。夜遅くに行われ、奇妙なお面を被った神官が牛に乗って現れます。

 

       wikimediaより。元資料は日文研データベース

 

これは「年中行事画帳」(江馬務著・中島壮陽画 1928)の挿絵です。

牛に乗っているのは「摩吒羅神」(摩多羅神)だというのですが、摩多羅神は寺院の常行堂の「後戸」に祀られている秘神であり、祭で人前に姿を見せるような存在ではなく、「牛に乗るのは司祭者(神主)であっても摩多羅神自身ではない」と川村湊氏は記しています。(『闇の摩多羅神』 河出書房新社 2008)

読みあげられる祭文も、疫病神等の退散を願うもので、この祭りは本来節分の一種で「追儺(ついな)」の儀式ではないかというのです。そういえば、祭文を読上げた後、神官たちは一斉に(追い払われる鬼のように)堂内に駆け込んで祭は終わるのです。

 

       

これは「都名所図会」(1780年刊・日文研データベースより)にみえる江戸時代の牛祭で、旧暦では九月十二日に行われたのですね。この絵ではよくみると面(この面は天狗のような面?)をつけた人物は後ろ向きに牛に乗っていて、これが本来の姿だったようです。

 

いずれにしても謎めいたお祭りで、一度見てみたいのですが近年は休止中だということです。理由は、牛が調達できないため。 なるほど。

昔は近隣の農家に牛(農耕牛)がいましたが、いなくなってしまったので、どこかから連れてくるというのが難しいのですね。その点、馬は今でも供給体制があるのですね(お祭りだけでなく映画撮影や乗馬体験とか・・)

なお、「何故牛なのか」という点に関しては、「耕牛、役牛としての牛を統御し、それを生産や運搬や祭儀の行列などに使おうという意思の表現であり、その意味では『殺牛祭神』の対極にあるもの」で、「その本質としては、殺牛祭神の祭事を否定する、非殺生を唱える仏教の導入という『宗教改革』」であって、その立役者こそ秦河勝だった。また、河勝自身が神格化され、祀られる対象になっていく、とも川村湊氏は記しています。(『前掲書』) 

大酒神社は、「延喜式」に「元名大辟神」と記されていて、「大辟(おおさけ)」は大きく水を裂(割)いた、つまり秦氏による治水・利水事業の顕彰であるとの説もあります。

秦氏、特に秦河勝については、もっともっと勉強しないと彼(ら)の実像は遥か彼方に霞んだままで、私にはなかなか見えてこないようです(-_-;)(-_-;)

 

大酒神社を後にして、木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社に向かいました。通称「蚕の社」、大酒神社の元社と言われています。牛祭も、当社の神職が深く関わっていたということです。

 

 

 

「木嶋」とは、おそらく文字通り「木立ちの島」で、昔はもっと広大な森だったでしょう。

 

 

 今も甍の海のなかにぽっかりと浮かぶ島のような杜(もり)になっています。

 この境内にあるのが有名な三柱鳥居。

 

 

 鳥居の中央にある組石付近からは、かつて豊かな湧水があり、手前に流れて小さな池に注いでいました。

 

 

 この池に足を浸してお祓いをする慣習があり、これは下鴨神社の「みたらし祭」と同じです。またこのあたりの森を「元糺(ただす)ノ森」といい、下鴨の「糺ノ森」と関係があるようです。

また、秦氏の氏神である松尾大社・稲荷大社と上・下鴨神社の神紋は、どれも「葵」です。

これらは太秦・深草を根拠地とする秦氏と、上・下鴨を根拠地とする加茂氏との関係を象徴しているのであって、加茂氏と秦氏の二大勢力は姻戚関係を結び、京都盆地のなかで協調し「住み分け」ていたのですね。

 

このように、京都盆地では平安京ができるかなり前(5・6世紀)から高い技術力をもつ秦氏や加茂氏が開発を進めていて、かつ政治的にも安定した土地だったのです。のちに桓武天皇が遷都の地にしたのも、このような背景があったからこそなのですね。

今回はこのあたりで。