東福寺駅の近くに用事があり、それが午前中に済んだので、東の方にぶらぶら歩いて泉涌寺や東福寺方面に向かいました。長年京都に住んでいますが、このあたりは今まであまり来たことがなく、初めて歩いた道が多かったです。

 

 

 泉涌寺総門です。門の向こうに案内板が見えていますね。

 

 

 「一山案内図」をアップで撮りました。下部中央の赤字「現在地」地点です。

 ここから奥(山手)にかけて塔頭が続く道を上がっていくと、仏殿・舎利殿・本坊などがあります。

 総門の看板にもありますが、泉涌寺は「御寺(みてら)」と呼ばれて多くの天皇の葬儀が行われるなど皇室との繋がりが深いです。

 

 

 塔頭寺院もたくさんありますが、この日はその一つの悲田院に行ってみようと決めていました。上の一山案内図では、右の中央やや下に記されていますが、分かりますかね。

 悲田院というのは、元々は奈良時代からあった救貧施設で住処のない者を受け入れる今で言えば福祉施設です。平安京にも東西二つの悲田院があったのですが、中世以降東悲田院のほうは非人身分の人たちの集住地の名称になり、佐比九条のほうにあった西悲田院は一旦廃絶したようです。それが14世紀初に無人如導という僧によって上京の安居院(あぐい)に再建され、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学の寺院になります。

 福祉施設からお寺になり、しかも室町時代には後花園天皇の勅願寺になって同天皇の葬儀もここで行われ、以後住職は格式の高い僧だけに許される「紫衣(しえ)」を着て宮中に参内したそうです。つまり、名前は悲田院だけれども中身は全く違うものになったのですね。

 江戸時代になって如周恵公という住職のときに摂津高槻藩主・永井直清が帰依し、その差配により現在の地に移転した、つまり泉涌寺塔頭寺院になったということです。

 

 

 

 以後代々の高槻藩主の菩提寺になり、幕末に至ります。

 また、いつの頃からはわかりませんが、「煎茶道東仙流総司庁」がおかれているようです。

 

 

 「煎茶道」というのは知らなかったのですが、今回調べると物凄くたくさんの流派があるみたいです。  参考までにリンクを貼っておきます。

 

 

 

抹茶ではなく、煎茶や玉露を使い、急須や茶碗・お湯の変化でお茶をめでる、またその作法を磨くのだそうです。

 

 さて、悲田院の堂舎は比較的簡素なもので、本尊阿弥陀如来像(伝快慶作)の他に毘沙門天などがお祀りされているようです。

 

 

 さて、堂舎を右側へ回り込むと、突然目の下に京都市街が拡がりました。

 

 

 

 正面に見えている山は愛宕山ですね。京都タワーもよく見えます。

 だらだらと坂を上っては来たのですが、こんなに高いところまで来ていたとは!ちょっと意外でした。

 

 悲田院を出て、元来た道を戻ろうかとも思ったのですが、道端に「→東福寺道」との表示があったので、そちらに進みました。人気がなく、ちょっと心細い・・・。

 

 

 

 しばらく歩くと、日吉ヶ丘高校の校地の横を通ってまた街中に出ることができました。

 そしてさらにしばらく歩くと・・・

 

 

 東福僧堂の前に出ました。

 ここは修行道場なので公開されていませんが、もう少し行くと・・・

 

 

 平日なのにこの人出。これからの紅葉シーズンには凄いことになるのでしょうね。

 コロナは大丈夫?