もう一度粟田口刑場があったあたりに戻ります。

このあたりでは処刑がされただけでなく、それをあえて通行人に見せる(晒す)ということもしていました。それも含めての刑罰だったということですね。

死んだあとも晒されるというのは、それを見る人の感覚としては、やはり「哀れ」「可哀そう」という感じが先立ったのではないでしょうか。

 

 

 刑場の、東海道を隔てて北側に今も残る大日堂です。

 

 

 手向けられるお花や水は、今も絶えることがありません。 またここにもたぶん国道工事のとき出た石仏などが集められたのだと思います。

 さて、粟田口で処刑された人たちのなかで、ひときわ有名なのは「おさん茂平衛」のカップルではないでしょうか。

 おさんは、京都四条烏丸下がるにあった大経師(だいきょうし)の大店の奥さんです。

 大経師というのは、表具や額装を請負うほか、この店は暦を発行する権利を幕府から認可されていました。暦というのは、町衆・農民を問わず昔の人には必須のものだったので、その発行権を持っているというのは大変なことなのですね。

 そこの若女将だったおさんは美人の誉れ高く、主人の井春にとっては自慢の妻でした。

 悲劇は井春が江戸城襖絵のメインテナンスを命じられ、江戸への長期出張が決まった時から始まります。

 主人留守中店の業務の助っ人として、おさんの郷里である丹波柏原から茂兵衛という実直な若者が上京してきました。そして彼に恋慕したのが店の女中の たま です。

 彼女の想いを茂兵衛に伝えようとしたおさんは、手違いで茂兵衛と深い仲になってしまいます。(このあたりは省略しすぎですが・・・)

 

 二人は、道ならぬ恋の決着をつけるため琵琶湖に投身心中しようとして失敗し、二人の郷里・丹波柏原に逃げたのですが、主人・井春の訴えにより探索方に捕らえられたのです。

 このような(今でいえば)不倫は、当時も珍しいことではなかったのではないかと思うのですが、大経師という苗字帯刀を許された特権階級で、主人が奉行所に訴えたため捕縛されたおさん茂兵衛とたまは、「不義密通」とその幇助の罪で極刑に処せられることになりました。

 おさんと茂兵衛は磔(はりつけ)。たまは獄門(斬首)刑です。

 この件に関し、当時京都の治安を担当していた四座雑色(しざぞうしき)の史料である「諸色留帳」から引用します。

 

   天和三年亥十一月、からす丸四条下がる大きゃうし、さん、茂兵衛、下女、右三人町中

   御引渡し、粟田口にて、磔 さん、茂兵衛 獄門 下女たま  

    右五日昼夜番天部六条 前田安芸守(直勝)様御時 

    井上志磨守(正貞)様        

    荻野□左衛門様 

    雑式(色)衆 稲田孫右衛門様        

             湯浅角右衛門様                     

    六条村年寄 嘉兵衛                       

       同 下役 佐右衛門                      

    天部村  年寄中                      

    川崎村年寄 次兵衛                               

    又次郎天部 伝三郎

 

  文中に出てくる「天部」「六条」「川崎」というのは、当時四座雑色のもとで刑務を務めていた役人村です。最後に出ている「又次郎」というのは人名ではなく、実際に獄門(斬首)を行う人の役名です。天部村の伝三郎という人がその役を務めたということです。

 

 天部村というのは、元々四条河原の西にあったかわた村(皮革関係の仕事をしていた)ですが、秀吉の京都改造政策にともない、このあたりは寺町になるというので三条川東に移転を命じられたのです。

 辻ミチ子先生は、この移転は天部の人たちに粟田口刑場での刑務を担当させることと関係があったと指摘しておられます。

 その意味では、三条川東にあった被差別集落・天部も境界・粟田口の構成要素の一つと言えるでしょう。

 辻先生は、天部の又次郎について、講演で次のように言っておられます。

 

  又次郎というのは人の名前というより役の名前です。実際に首をはねる役です。江戸だったら下級武士がやっています。京都では又次郎です。どんな人が又次郎になるかといいますと、肝っ玉の太い、すかっと腕の立つ人が選ばれてなるわけです。なかなか誰にでも出来る仕事ではありません。刑吏の仕事にあたって人の首を斬るようなことをするから人に嫌がられるようになる、差別が強くなったといわれますが、一人の人間としての又次郎をみたら、とても立派な人です。役としてさせられるだけで、腕が確かでないとできません。よく漫画などで首がポーンと飛ぶシーンがありますが、あんなことをしたら又次郎は失格です。又次郎は首の皮一枚を残して頭がポトンと落ちるように斬らないといけないのです。ものすごく腕が立たないとできない仕事です。

 

 おさん茂兵衛の 悲恋については、井原西鶴が「好色五人女」でとりあげたのを始め、近松門左衛門も題材にしています(「大経師昔暦」)。また映画では溝口健二監督の「近松物語」(1954年大映)があります。おさんを香川京子、茂兵衛を長谷川一夫が演じました。当時最高の美男美女俳優ですね。たま役は南田洋子です。

 

  「近松物語」の一シーン

 

 こうして見てくると、粟田口という境界は、さまざまな悲劇の舞台にもなったことがわかります。それぞれの時代、それぞれの社会の「沸点」のような場所だったのですね。

 そしてもう一つ言えそうなのは、現代は境界の意味が希薄というか見えにくくなり、一見どこでも同じノッペラボーな社会になっているのではないかということです。

 粟田口シリーズはこれで終わりにします。