粟田口あたりが、近世末と今と一番変わったのは、何といっても道路が切り下げられたことです。かつて九条山(日ノ岡)の坂は結構急傾斜で、特に大津・山科方面からの登りが大変だったのです。何故なら、京都へ運ぶ米など荷を積んでいるので、重量物を運び上げなければならないためです。運搬手段は主に牛車ですが、さすがの牛も何俵も米俵を積んだ牛車を曳けなくなるので、最も傾斜がきつい部分は予め人夫が待ち構えていて、何俵かは牛車から除き坂上まで人力で運んだそうです。

また東海道の路面には轍が通る部分に「車石」を敷き、土の地面よりスムーズに車が通るようにしてありました。長い間ほぼ同じ部分に車が通ったため、そこだけが抉られて窪んだ石が「車石」です。窪んでくると車との摩擦面が多くなるので、滑りが減って少しは運びやすかったようです。

 

       旧東海道と現国道との分岐点に復元展示してある運搬車と車石。

       白い車が出てくる道が旧東海道。   

 

 

近世以来日ノ岡の坂は何度も切り下げ工事が行われました。少しでも傾斜を緩やかにするためです。僧侶が呼びかけ浄財を募って行われた工事もありますが、ここは古生層の硬い岩盤なので、人力だけでは大して堀り下げられないのです。

明治になって琵琶湖疏水が計画されましたが、当初のニーズは何といっても舟運でした。

米などを琵琶湖から舟で京都まで運べたらどんなに楽になるだろうか、それは長い間東海道陸路運搬のネックに悩んできたし、さらに首都でなくなって地盤沈下しつつある京都の起死回生策でもありました。

 

近代以降少し工法も近代化し、数次にわたって大規模な国道切り下げ工事が行われました。しかし、昭和8年に完成するまでに何人もの犠牲者が出るほどの難工事だったのです。

 

 

これは日ノ岡の坂の東側にある京津国道改良工事碑です。台座に車石がはめ込まれています。

 

 この国道工事も、主要には「切り下げ」によって急傾斜をなくすることでした。

 

 

 旧東海道から見た今の京津国道(1号線)です。このあたりは旧道から6~7メートルは切り下げられていますね。車だったら長年の人々の労苦を偲ぶ間もなく、アッという間に通過してしまいますが・・・。