「粟田口」  前2回で、京都の東の出入り口である粟田口の、境界としての構成要素(近世での)のうち、そこを守護する神仏ー日向大神宮と安養寺ーと、旅人相手の茶屋群ー弓屋、藤屋などについて紹介しました。

もう一度今の粟田口周辺の地図を見てください。

 

 

 粟田口から少し日ノ岡(九条山)の坂を上がったところに、刑場がありました。これは明治の初めぐらいまであったようです。一般に刑場は「一罰百戒」というか、見せしめのため通行量が多い場所に設置されましたが、それとは別に「境界」特有の施設でもあったと思います。

 京都ではここの他に「西土手」(三条御土居西)刑場もありました。

 また京街道(京都からは大和街道)の奈良への出入り口・奈良坂にも刑場がありました。

 これについては前に書いたことがあります。

         ここ

 境界に刑場が造られるのは、やはり死を穢れとみることに関係があると思います。中心部ではタブーとされる死や穢を境界に移動する見えない力が働くのです。

 そのような見方をすると、刑を執行する刑吏に被差別身分の人たちをあてたことも説明がつきます。

 粟田口刑場について、ケンペルというドイツ人医師が、元禄期に旅したときの記録(『江戸参府旅行日記』 斎藤信訳 東洋文庫303)を残しています。少し長いですが引用します。

 

 われわれは早朝三時半には大津を後にした。隣り合った奴茶屋と藪下の村を通って日ノ岡という山の麓にある村に着くと、そこからほど遠からぬ所に南無阿弥陀仏という文字を彫った丈の高い石碑が一つ建っていた。その向かいに二人の罪人が磔にされていた。その磔の柱のすぐ近くの、しかも石碑も十字架も見えない両側に、粗末な物を敷いて一人づつ僧侶が座っていた。そして道に沿って七枚の板がさしてあった。察するに死んだ者の名がそれぞれ書いてあったのだろう。また板の一枚一枚には南無阿弥陀仏と書いた旗のようなものが吊るしてあった。漆塗りの日笠をかぶった僧は一枚の板を前に置き、その上に金属製の容器を逆さにしたような鐘を据え、時々たたいてはなんまいだあを唱えていた。また、そばにもう一つ手桶を置き、それに結びつけた文字の書いてある何枚かの紙片を、手桶にいっぱい入っていた水にちょっとつけた。両側には小さいシキミの束がさしてあり、僧はその一つを小さい棒に結びつけ水をつけて、それで文字の書いてある板切れを絶えず洗い浄めた。そしてその都度そこに書いてある死んだ人の戒名を、経文と一緒に唱えていた。前を通り過ぎるすべての日本人は、僧たちに小銭を投げ与えていた。

 

 当時旅をするというのは、このような非日常の光景を眼にするということでもあったのですね。「非日常」の中身が今とはだいぶ違いますが。

 この粟田口刑場跡はいまどうなっているのか。

 

 

 これは最近地元の人たちによって建てられた案内板です。

 案内文に記されていますが、昔この付近には供養塔の類がたくさんあったようですが、明治初の廃仏毀釈によって撤去・破壊されてしまいました。

 それらのうち、後の国道工事のときなどに掘り出されたものの一部が、もう少し東の日ノ岡付近にいくつか建っています。

 下の写真はその一つで、ケンペルの紀行文に出てくる石碑ではないかと思われます。

 

 

この碑の横にある案内文です。

 

   

   案内文の最後に、「人為的に切断されて道路の溝蓋などに流用された」と記されていますが、「その時の痛ましい傷跡」は、石碑の裏側のほうに回ったほうがよく分かります。

 

  

 

 碑の上部が縦三つに割れているのが分かりますか。

 そこには、京津国道工事ニ於ケル犠牲者ノ為ニ 昭和八年三月 と記されています。

 三つに割られて道端の溝蓋にされていたものを復元し、下部を補って昭和8年に国道工事の犠牲者のための慰霊碑として再建されたのです。 

 今回はこのあたりで。