前回は粟田口に一ノ鳥居がある日向大神宮のことを記しましたが、一ノ鳥居の前にはもう一つ「青龍山安養寺」の巨大な石柱も建っています。

 

 

 鳥居を潜り、少し歩くと琵琶湖疏水にかかる橋が・・・

 そこから上流側を見ると・・・

 

 

 トンネルから出てきた疏水の幅が少し広くなっているところが蹴上舟溜りです。

 下流側を見ると・・・

 

 

  インクラインの上端です。ここから先は急傾斜(断層崖です)なので、船のまま下ると「急流すべり」どころではなく人や荷物を積んだ舟が転覆してしまう恐れがあるため、複線の軌道の上を台車に乗せて下端の南禅寺舟溜りまでケーブルカーのように運行したのです。その動力は、蹴上水力発電所で起こした電力です。

 明治になって首都の座から滑り落ちた京都を起死回生させるため、まさに当時最先端の技術が投入されたのでした。それを担ったのは当時まだ三〇歳になるかならないかの技師・田邊朔朗でした。

 近世末までは勿論疏水もインクラインもなく、一ノ鳥居からダラダラと上り坂が続いていました。橋を渡ってもう少し行くと・・・

 

 

日向大神宮へは右、安養寺へは左という分岐です。

さらに左の道は石段の急坂とやや緩傾斜の登り道に岐れています。

どちらをとっても安養寺までは大した距離ではありません。

 

 

 安養寺本堂です。「青龍山」との扁額が。

 

 

 一切経谷青龍山安養寺 と刻された石柱。

 このお寺は、円仁(慈覚大師:794~864)によって開かれ、比叡山延暦寺の別所で「一切経堂」と呼ばれたと伝えられます。また山号の「青龍山」は、平安京を「四神相応の地」とみるとき、東の守りが青龍であることに由来するのでしょう(北は玄武、西は白虎、南は朱雀)。

 桓武天皇は、平安京の四方に一切経を納めた「経筒」を埋めさせて都の平安を祈願したとの伝承があります。北は今の左京区岩倉北方の山、西は西山金蔵寺、南は明王院または男山、そして東は大日山(東岩倉山ともいう)で、そこから流下する谷(一切経谷)に安養寺と日向大神宮があるのです。

 東の守りが青龍というのは、仏教というより道教の考えですが、日本は昔から「何でもあり」ですからこれでいいのです。

 一切経谷付近の今の地図はこうなっています。

 

           国土地理院地図+カシミール3Dより作成

 

 この地図の「一ノ鳥居」のあたりが近世粟田口の中心であり、行きかう旅人相手の茶屋が並んでいました。(前回参照) そしてそこを守護するのが日向大神宮と安養寺という社寺だったのです。

 今回はこのあたりで。