前回バス停名に残る「御土居」のことを記しましたが、今回はそのすぐ近くにある矢取地蔵という小さな地蔵堂の話です。

前回出した地図ですが、もう一度見てください。

 

 

 下に通っているオレンジ色の広い道は九条通(国道171号線)です。それと千本通の交差点のすぐ東に矢取(「矢負」とも)地蔵堂があります。

 

 

 この地蔵堂から少し北へ小径を入ったところに「羅城門遺址」の石碑が建っています。見えますか?公園の滑り台の手前です。

 羅城門は平安京の南正門で、ここから幅80メートル以上ある朱雀大路が北へ伸びていました。最初は威容を誇っていたのでしょうが、何度も火事にあい、10世紀初にはすでに廃墟になっていたようです。黒澤明監督の「羅生門」の舞台になった荒廃した門を思い出します。

 

    画像ー ウィキペディアより。

                       デジタルリマスター版のポスター。

 

 門と同様に、朱雀大路から西=右京は早くから衰退が始まりました。紙屋川(天神川)などが氾濫を繰り返す居住にはあまり適さない低湿地だったことが主因と思います。

 左京の繁栄、右京の衰退は、羅城門を挟んで東西に配置された官寺・東寺と西寺のその後にも影響しました。東寺は弘法大師・空海が基礎を固め今に至るまで隆昌を続けていますが、西寺は何度かの火災から立ち直れず、早くに廃寺になりました。今は、金堂基壇跡を中心とする西寺遺跡公園があります。ここ

 

 両寺の興亡史を反映する伝承が、矢負地蔵に伝わっています。

   長い間雨が降らず、干害が深刻になったので、神泉苑において西寺の守敏と東寺の空海が雨乞い祈願をしたとき、守敏が祈祷しても少しの雨しか降らなかったが、空海が祈ると大雨が降り、空海が称賛された。これを妬んだ守敏は、羅城門で空海を待ち伏せし、矢を射かけたところ、突然黒衣の人が現れ空海の矢面に立って背中に矢を受けたため空海は難を免れた。この黒衣の人は実は地蔵尊で、後に矢負(矢受)地蔵としてここに祀られた。

 

 堂内には大きな石の地蔵座像がお祀りされていますが、元は木像で背中に矢傷があったとか・・。

 今はこの伝承とともに語られる矢取地蔵ですが、歴史を遡ると・・・

 これも前に出した地図ですが、もう一度。

 

 

 矢取地蔵の位置は〇印地点です。(×は前に紹介した「御土居」バス停)

 この地図は明治22(1889)年測量ですが、江戸時代の状態がまだ色濃く残っていると思います。ピンクに彩色したのが当時残存していた御土居ですね。

 矢取地蔵の前を通っている道は西国街道です。それから、南に向かっている道もありますが、これは「鳥羽作り道」という古道です。ということは、〇地点は京都の南の出入り口で交通の要衝であったことが分かると思います。御土居ができてからは「鳥羽口」とか「東寺口」とか呼ばれ「御土居七口」の一つでした。

 そして、〇のすぐ右(東)に水流が見えますが、これは鍋取川という川でした。堀川から分かれた分流です。西国街道が鍋取川を渡る橋のたもとに矢取地蔵があったのです。

 ということは、この地蔵尊は京都の出入り口にお祀りされたお地蔵さんだったのです。

 京都市中には今も路傍にお地蔵さんが沢山ありますが、昔は各町内の入口(木戸があったところが多い)にお祀りされ、町内に邪悪なものが入らないように守っていただいているという位置づけだったのです。その前で子どもの健やかな成長を願う「地蔵盆」が行われるようになったのは江戸時代中期からぐらいのようです。(村上紀夫『京都地蔵盆の歴史』法藏館2017)

 

 ということは、矢取地蔵は京都の出入り口に祀られているので、京の都に邪悪なものが入り込まないように守っていただく、またこれから旅立つ旅人が道中の安全を祈る、そういった人々の願いを受けとめるお地蔵さんだったのではないかと思うのです。

 

 もう一度上の写真をみてください。

 地蔵堂の右(東)側にグレー色舗装された小径がありますね。これは鍋取川の跡(暗渠化された)です。地蔵堂の前に石橋のようなものがありますが、これは元西国街道にかかっていた橋の名残りではないかと思います。

 鍋取川は、平成の初めぐらいに暗渠化されたと聞いています。

 矢取地蔵地点からすこし「上流」へ遡ってみると・・・

 

 

 

  これは「羅城門遺址」碑がある公園を南側に見ています。道路が鍋取川の跡ですね。

 さらに・・・

 

 

 道路の半分ぐらい(左側)が鍋取川の暗渠です。ということは、左側(西側)の家並みは暗渠化された後にできた?それとも川があった頃は所々に橋が架かっていた?

 いろいろな想像が膨らみますね。街歩きの楽しみです。

 

 一人でブラブラ街歩きしたり、その時気づいたことに関して疑問点を調べたり、こんなことはコロナ禍のなかでもできます。というより、他に優先的にしなければならないことがあまりないので、むしろチャンスかもしれません。

 では今回はこれぐらいで。