前回、御真影(天皇・皇后の肖像写真)、教育勅語謄本の学校での格納場所として、校舎内に奉安庫が作られるようになったことを記しました。

 ところが、明治期には校舎はまだ木造であり、炭火などの火種も多かったので、学校の火災が多発しました。その結果、奉安庫も焼け、御真影が焼失するという事態も起こりました。

 そのような時、御真影を持ち出そうと、教員や校長が燃え盛る炎の中に突っ込んで焼死するとか、御真影焼失の責任をとって校長が自殺するとかいった事件がおこりました。

 

 漱石の弟子で、菊池寛や芥川龍之介らと同時代に活躍した作家・久米正雄(1891~1952)に「父の死」という短編があります。これは彼の父が長野県上田の小学校長だったとき、火災により校舎が焼けた直後に自殺した件を題材としています。

 前に紹介した岩本努著・『御真影に殉じた教師たち』によると、実際には御真影は焼けなかったらしいのですが、当時は「御真影を護れなかった責めを負って見事に死んだ」と言われたのでした。

  「父の死」は青空文庫で読めるので、よかったら読んでみてください。やはり作家の文章は緊張感が並ではないですね。

 

    https://www.aozora.gr.jp/cards/001151/files/49280_34317.html

 

 このような件が相次ぐと、教師の命がいくつあっても足りないということで、考え出されたのが奉安殿です。

 これは木造校舎の中ではなく、別棟の土蔵造りで、火事でも余程のことがなければ中に火が入らないので、非常時に御真影を慌てて移動する必要がないのです。

 昭和10年頃から校舎は次第に鉄筋コンクリート化されていきますが、その頃には奉安殿は別棟土蔵造りが当たり前になっていました。

 そのようになっても、やはり御真影を護る事は学校にとって重大事であり、教員の宿直勤務の第一義的目的は御真影の防護でした。戦時中の1943(昭和18)年9月17日付の文部省通達「学校防空指針」によれば、「学校に於ける自衛防空」の主眼は・・・

 

(1)御真影、勅語謄本、詔書訳本の奉護

(2)学生生徒児童の保護

(3)貴重なる文献、研究資料及重要研究施設の防護

(4)校舎の防護

 

 という順になっています(『前掲書』より)。

 学生生徒児童の保護よりも、御真影等の「奉護」を優先せよということです。

 

 

 

  これは現在使われている中学校社会科(歴史分野)の教科書(帝国書院版)の一部です。

 左上の写真に奉安殿が写っています。こういった神社の社殿風の建築が多かったのです。

 この写真では小学生(当時は国民学校)が奉安殿の前に整列している光景ですね。

 説明文にある「最敬礼」というのは、深くお辞儀をすることなので、「捧げ銃(ささげつつ)」としたほうがいいと思うのですが、この用語を使うとまた説明がいりますよね。

 

 このように、奉安殿は戦前の教育の象徴のような施設でしたから、敗戦後はGHQの命によりすべて破壊されました。その破壊作業中に、落ちてきた屋根に頭を直撃されて亡くなった教員(和歌山県那賀郡川原国民学校・D教頭)が、奉安庫・奉安殿関連殉職教員の最後の一人(『前掲書』)ということです。

 

 そのようなわけで、奉安殿の現物はほとんど残っていないのですが、稀に移築され別の用途に使われているため現存しているものがあります。

 

 

  これは京都府の唯一の村・南山城村の旧田山小学校(2003年南山城小学校に統合のため廃校)にあった奉安殿です。いまは数百メートル離れた観音寺というお寺に移築され、納骨堂として使われています。

 

 

 両側に並んでいるお墓はほとんど戦死兵のものであり、旧奉安殿の前に「英霊」たちが整列しているようにも見えます。

 今では「過去の遺物」になった奉安庫・奉安殿ですが、このような歴史を「なかったこと」にせず、次の世代にどのように継承していくのか、シニア世代の課題ではないかと私は思います。