本ブログを読んでいただいているみなさま

 「平坦な坂」の連載を終わるとともに、「京都の坂」という大テーマからもいったん離れて、「戦争と京都」という新テーマに移ろうと思います。

 実は、これもあえて詳細は記しませんが、すでにアナログ媒体(早くいえば本)で発表済みの内容なのですが、2009年刊なので、その後十年近くたちました。

 これは大手出版社からしかも新書版だったので、初刷りは9000部も出たのですが、「それっきり」で今にいたるまで改版されず、後で気づいた間違いも訂正できないままです。

 この間京都の街もかなり変わってきて「戦争遺跡」にあたるものも変貌しつつあります。

 そうした変化を記録しておく意味もあり、また戦争体験(間接的なものも含む)が風化し忘れ去られてしまうことは、私たちの世代の責任としてもそうならないように努力しなければ、と思います。

 そういったいろいろな意味をこめて始めたいと思いますが、ブログですからあまり肩肘張らずに、気軽に(ネタとしては重いですが・・・)読んで頂けるものを目指したいと思います。

 よろしければ、またお読みくださるようにお願いします。

 

 さて、今年の8月15日で敗戦後73年を迎えるわけですが、73年前の今頃、京都はどんな様子だったのでしょうか?季節の巡りはいまとあまり変わっていないとおもうので、やはり梅雨の最中だったのでしょうか?

 私はまだ生まれていないので、勿論自分の記憶としてはありません。

 戦争は末期を迎えていて、誰の眼にも「もうそろそろ負け?」という感じだったのでは?と思うのですが、そんなことを口に出せばどこで誰が聴いているかわからず「非国民」の烙印を押され治安維持法の餌食になりかねません。

 この年の3月10日に東京大空襲で10万人以上の犠牲者が出、隣の大阪でも反復的空襲で焼け野原が拡がりつつありました。

 京都でも大阪空襲の炎で西の空が赤く染まるのが見えたと母から聞いたことがあります。

 また、これは後で記しますが、この年の1月16日、東山の馬町付近に数発の爆弾が投下され、死者41名、傷者56人、家屋損壊300戸以上(資料によって異なる)という空襲被害が出ました。これは京都で最初の本格的空襲被害といえます。

 京都では東京や大阪のような大規模かつ反復的な空襲はなかったのですが、これは後で述べる理由のため市街地を焼き尽くすような大規模空襲が控えられていたのです。

 これが後に誤って伝えられ、ウォーナー伝説というものができました。

 これは、ウォーナー博士という親日家が、京都には人類の遺産ともいうべき貴重な文化財が多数あるので爆撃を控えるよう米政府に働きかけ、それが受け入れられた結果だという説です。博士本人や家族が否定しているのにこの説は独り歩きし、各地に博士の顕彰碑が建ったりしました。また今でも京都には空襲がなかったので、その結果古い文化財や街並みが残されていると思っている人が結構いるのではないでしょうか。

 実際には京都でも爆撃があったのです。

 

  1945(昭和20)年6月26日の午前9時40分頃、上京区の西陣南部、智恵光院通下長者町付近を中心に、6~7発の爆弾が着弾。付近に大きな被害が出ました。

 その日からまもなく73年目を迎えます。

 

 

 これは智恵光院通下長者町角にある辰巳公園という児童公園の一角に設置された碑です。自身も空襲被害にあい危うく命拾いをされた磯崎さんという方が私財を投じ、2005(平成17)年に設置されました。

 碑面にも記されていますが、この空襲(以下「西陣空襲」)の被害は、死者43名、重軽傷者109名、被害家屋292戸(うち全壊71戸)という甚大なものでした。

 

 

 これは碑面に記された着弾地点(赤丸)を示す略地図の写真に、筆者の生家地点を青(緑)丸で書き加えたものです。

 青丸が赤丸であってもおかしくなく、本当に紙一重で筆者の生家付近は直撃弾を免れたのです。

 後で母から聞いた話ですが、その時は家に一人でいて家事をしていたところ、空襲警報が鳴ったのでお向かいの家の奥さんに声をかけ、一緒に家の床下に造ってあった防空壕に入った直後、もの凄い音と爆風がきたのだそうです。

 しばらくして防空壕から出てみると、我が家は散々な状態だったといいます。

 窓ガラスはあちこちで砕け散り、襖や壁にかけてあった額などが飛び散って足の踏み場もない状態だったそうです。

 もしこの時、我が家付近に直撃弾が落ち、母が43人の死者のなかに入っていたら、戦後私がこの世に生まれることはなかったわけです。

 

 直撃弾が落ちたあたりは、大変なことになっていました。

 ここから先は次回に回したいと思いますが、この爆弾を投下した爆撃機について。

 碑面にはB29と記されており、一般的にはそのように言われていて、私の本にもそのように書きました。しかし、今はどうも違うのではないかと思っています。

 というのは、次回以降に書く予定ですが、当時の新聞報道に記者の目撃談として「急降下爆撃だった」と記されていて、それはB29ではありえないのです。

 同機は大型爆撃機で、通常高射砲弾が届かない高高度(千m以上)から爆弾を投下します。なので、この時西陣付近に爆弾を投下したのは、日本近海まで接近した航空母艦から発進した艦載機ではなかったかと、今のところ思っています。

 では今日はこのあたりで。