岩倉の道端に祀られているお地蔵さんです。

京都の街中にもたくさん地蔵尊が祀られていますが、ちょっと雰囲気が違いますね。

 

さらにこの風景はどうでしょうか。民家から岩倉川に下りる専用の石段です。今は使われていないようですが、かつては洗濯や野菜洗いなど、岩倉川の清流は生活と不可分だったのでしょうね。

これらの写真を出したのは、「岩倉は京都か?」という命題を考えるためです。

井上章一さんの『京都ぎらい』に、鉾町の住人から「嵯峨は京都と違う」と言われたという話が出てきますが、岩倉はどうでしょうか。これはまず、時代によって異なると思います。今は市内中心部から地下鉄なら十数分で国際会館駅に着くし、岩倉は「京都の住宅地」というイメージが定着していると思います。しかし昔は違いました。岩倉は京都の街場とは別の農村でした。その境界が狐坂だったのです。

今も、京都とは別世界だった頃の岩倉の雰囲気があちこちに残っています。そのため、岩倉を歩くと、何か流れる時間がゆったりしているように感じるのです。これは京都人である私の感覚かもしれませんが。

さて、前回(狐坂 その4)岩倉は狐坂などの隘路に阻まれ野菜などを京都に出荷しにくかったため、都会から来た人に岩倉の農産物を消費してもらう方途が考えられたと記しました。

その一つは「里子」の受け入れです。昔から岩倉は京都の貴族たちが風光を愛でるため遊びに来る地でした。特に江戸時代、後水尾天皇(在位1611~1629)・上皇と妻の東福門院(徳川秀忠の娘・和子)は岩倉をたいへん気に入り、娘の女三宮に与えたものを含めると岩倉に三つも別荘を持っていました。岩倉に行幸のとき、随行してくる公家たちは岩倉の上層農家に分宿したようですが、その間に人間関係ができ、公家たちの「わけあり」の子を農家に預けるという慣行ができたのが里子受け入れの始まりではないかと言われています。

幕末維新期に活躍した岩倉具視は幼少期岩倉に預けられていましたし(彼は政治的にピンチの時期にも岩倉に隠棲、その寓居跡が残っていて公開されています)、近現代では敗戦直後の首相・東久邇宮稔彦王も岩倉に預けられていたことがあるようです。近代には貴族だけではなく、庶民の子も多く預けられました。「わけあり」だけではなく、空気のいい岩倉でのびのびと育ってほしいという親心で預ける人もいたようです。1924(大正13)年京都府社会課の調査によると、岩倉村だけで98名もの里子がいました。この子らの養育費が岩倉農家の副収入となり、岩倉産の農作物が子どもたちの成長の糧になったのです。