相反するのにまるでコインの表と裏のように

それはくっついてるのかも、しれない。 



私は母がずっと嫌いだった。

たぶん、高校、大学あたりと

数年前から一緒に住み出してからだ。 



いつしか、これは自分の人生においての

課題だろうと思うようになっていた。 

 

 

私は外では明るく振る舞ったり

コミニュケーション能力も悪くない。

仕事も一生懸命やるし

どちらかもいうと得意な方だ。

 


それなのにーー

どうしても誰よりも

母には腹が立って仕方がなかった。



母は私にいつもすごいとは言ってくれない。

何か話すと斜めから見るような、

ダメ出しをするような、

そんなところがある。



なんでそんな言い方をするんだろう、

コミニュケーションの本でも

読んだらいいんじゃないか。



本気でそう思っていた。 

 



他人は変えられない、とか

本で読むたびに

自分が変わらなければならないらしいけど

でも腹が立つんだけど?!などと

苛立ちの矛先をどうすればいいのか

わからなかった。

 


時は流れて

今一緒に住んでいるのだけれど



確かに腹は立つことがあるけれど

よく考えたら

自分もたいしたことでないのに

腹を立てているのに気がついた。 



いちいち気にしてるのは自分の方

だったかもしれない。



そして、母がそのように言うのは

母もまた褒められたりすごいと言われなかったのだろうと感じた。

 



人は自分にされてないことは

できないものだからだ。



たぶんにしてそれは、

家庭環境の占める割合がものすごく大きい。 

 


生まれて初めての小さな社会で

私たちは人生の根本がそこで築かれる。 



じゃあ、母の親ーー私にとっての祖母や祖父ーーが母を誉めなかったから悪いのか、というとそれもまた検討ちがいで

 

 


祖父や祖母もまた同じように身近な人たちから

そうされてきたのだろう。

 

 


たぶん少しずつ少しずつ

昔から繋がって繋がってくるたびに

少しずつズレてきたんじゃないのか、と思う。

 

 


だって人はみな未熟な生き物なのだ。

親だって未熟だし

親である私もまた未熟であるように。




そして遺伝とは

先祖のいいところも悪いところも

全てDNAとして受け継いでるものーー



そんな理由がわかって

褒め方がわからないなら仕方ないんだなと

納得できたとき

 


母を初めて許せる気持ちになった。 



だって、母を嫌いだったのは

母を好きだったからーー

 


すごいね!ともっと言われたかったけど

言われなかったから嫌になっただけなんだ。 

 



ありのままの自分を

なにもできてなくても

すごいね!って言われたくて言われたくて

たまらなかったんだ。



 


そう思うと

恋愛も似ているのかもしれない。



好きな人が褒めてくれなかったり、

感心がなかったり冷たかったら

嫌いになるかもしれない。


 

憧れ、と言う言葉の裏には妬み、があるように


 

嫌なことはいいことと総量が同じなのも、

同じことなのだろう、きっと。

 



そしてーー 

 


気がつけば私の口癖はいつもあの

一番欲しかった言葉になっていた。




「すごいね!」 

 

  


私たちは子供の頃のあの純粋な魂に

戻る旅に出てるのかもしれない。