どうも、荒川泰次郎です。

今日は僕の高校時代のボクシング部の恩師、木庭監督の事をご紹介させてください。

木庭監督は、普段とても温厚な方で、怒る事は殆どありませんでした。

ですが、その経歴は半端じゃないものがあります。

そんな監督が、先日、オリンピックの聖火リレーに選ばれ走られました!!
その時の心境を綴った記事が、
九学通信という、卒業生に送られる新聞に載っていました。

是非、ご一読ください。

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幻のモスクワ五輪も今は良き思い出~聖火ランナーに感謝を込めて~
        九州学院ボクシング部監督  木庭 浩一(S28回)

コロナ禍のために、母国開催が危ぶまれているオリンピックですが、そのことに関わられ、聖火ランナーに選ばれたことはたいへん光栄なことであり、ボクシング競技人生の冥利に尽きる喜びを噛みしめています。
今から50年程前の1970年、柔道の強豪九州学院中学校に入学しました。私は幼少時に小柄でひ弱だったために小学校3年生の時に柔道を始め、後に高校で同級生となる山下泰裕氏(JOC会長)の柔道の師・白石礼介柔道部監督(旧31)と私の父が九州学院の同級生というご縁から「柔道」をするために九中に進んだのでした。
それなのに九中2年の秋に父の勧めで九州学院のボクシング部で高校生に交じって練習することになったのです。九中3年の時に故田中信夫監督から高校生と偽って県高校新人戦にエントリーされて、モスキート級(最軽量)で出場しなんと優勝しました。今ならとても考えられません。これが私のボクシング人生の始まりでした。
九州学院高校に入って1年時の沖縄特別国体とインターハイ決勝で3年生の具志堅用高氏に二度敗れるも善戦したことで自信がつき、2年、3年でインターハイを連覇しました。
ある時、試合前に減量のために授業をさぼりボクシングジムでサウナスーツ(減量着)を着て練習してるとその授業の先生が来られ、怒られると思いきや「体重は落ちたか。頑張れ」と温かいお声かけを頂いたことは未だに忘れられません。
日大4年の時に、日本連盟の計らいで名伯楽・故エディー・タウンゼント氏に師事して1980年のモスクワ五輪の日本代表に選ばれました。しかし米ソの冷戦の影響で日本がボイコットしたためにその夢が幻となったのです。それでも不思議と後悔や不満を抱いたことはありませんでした。
あれからあっという間に41年の月日が流れ、来る5月6日にオリンピックの聖火を繋ぐ大役を頂いたご縁を有難く思っています。私がこれまでお世話になった全ての方々をはじめ、両親、弟家族、そして妻子への感謝の気持ちをかみ締めながら力強く走りたいと思います。




こんな素晴らしい方に教えて頂いていたのかと思うと、本当に有り難く胸が熱く感じます。

明日は、また別の記事を載せたいと思います。

是非、そちらも合わせてご覧ください。


kantaママさん
そうですよね😊笑
もう既に将来の嫁さんと出逢ってるかもしれませんね?👍笑


四つ葉のクローバーさん
ファンというほどではありませんが、素敵だなと思いますね😊
絶対、裏表がありませんよね?✨