強くて気丈夫な母の最も辛かったであろう出来事を、当時3歳だった私の記憶に端的だが残っていて、この歳になっても忘れられない。


私が3歳の秋、弟が産まれた。

貧しい生活のなかでの唯一、 一縷の望みだったはずの長男誕生もますます母を苦しめる事に幼なかった私には分かるはずもなかったが、

小さくて可愛い弟に私は夢中だった。

当時大事にしていたお人形すらそっちのけで、弟にべったりだったそうだ。


弟は産まれた時から口の中と鼻の奥の境が穴が開いていて、飲んだミルクも満足に飲み込めない障害を持った身体で生まれて来た。ミルクは喉に落ちずに鼻から逆流して、栄養が取り込め無いのだ。 今の時代なら、最新の医学なら

手立てはあっただろうが戦後十数年の当時では、医者はさじを投げた。

なんの手当もないまま、その年の暮れ母は、乳呑児の弟と私を連れて田舎に帰るべく、夜の連絡船に乗った。


薄っすらと記憶にあるのは、ボウッ~!

と大きな汽笛と、か細く泣く弟をおんぶしてデッキに佇む母のねんねこ半纏の袖をしっかり掴んでいた事。

初めて乗った大きな船の珍しさよりも

何かしら様子の違う母の雰囲気に、私はなんでか不安だった。


物心ついてから聞かされた母の話で

あの時、弟と暗く寒い海に身を投げようとしていたらしい。だが、私が半纏をしっかり掴んでしきりに母を呼ぶので、ふと、気が緩んだそうだ。

その時タイミング良く、白い制服の船員さんが、ここは寒いからお子さんを連れてこちらにと、空いてる船室に連れて行ってくれたので、私は母を失わずに済んだようだ。


あれからも折りに触れ母は、あの時飛び込んでたら楽だったのに、と良く言ってた。思えば私はかなりヘビーな話を聞かされて育ったものだ。


田舎に帰っても弟は衰弱する一方で、か細く泣くだけの赤子を母は1日中おぶって過ごしていたらしい。

そして、明けた元日の事、母の背中で私の可愛い弟はたった100日の生涯を終えた。


小さな遺体を収めたのは、素麺の木箱だったと母は言っていた。 出棺の時

幼い私が木箱にすがりつき、寝てるから連れて行かないでと泣いて、離すのが大変だったと母が言っていた。

私の記憶にあるのは、弟の入った木箱に赤いリンゴを入れてあげた事だけだったが。


当時は土葬が当たり前の時代。

向いの山の中腹にある墓地の新墓に灯された提灯の明かりを家の庭から眺めて泣いたと、母は言った。そして、どこかで心が軽くなったとも言った。

今なら、当時の母の心情が痛いほどわかる。 日に日に弱っていく我が子をなすすべも無く、背中に負い過ごしていた日々はさぞ辛かった事だろう。