シネマの万華鏡

シネマの万華鏡

映画記事は基本的にネタバレしていますので閲覧の際はご注意ください。

 

 

4月ですね。お預けだった桜も一斉に開花して、嬉しい季節がやってきました。

嬉しいと言えば、例のhaienaさん率いるJ&H Filmsの3作目『ORLIK』が凄いことになってます。

 

https://x.com/seishocinemacl1/status/1774075241876373829?s=20

 

なんと西湘映画祭中長編部門でグランプリを受賞~パチパチパチパチ(拍手)

1作目に続いての映画賞受賞で、また新たなステージに上がった感じ。よっ映画監督!

アメブロ映画村のみなさま、一般上映・配信の際にはぜひご鑑賞くださいね。

 

トレードマークの時間軸操作で、サスペンス風味に

さて、待ちに待った『オッペンハイマー』。2回観てきました。ノーランのIMAXへのこだわりに敬意を表してIMAX観賞必須!と意気込んでいたんですが、どうもタイミングが合わなくて一般上映で鑑賞。その分映画館に2度足を運んだってことで許してもらえるでしょうか?(笑)

でも、正直この映画を理解するには、2回では足りません。さらに言えば、理解したから感動が深まるということも多分ありません。その理由は後で書きます。

 

本作にあらすじ説明は要らないでしょうね。人類初の原爆を作り、日本に投下させた物理学者の半生の物語。その一言で日本人には十分な気がします。

じゃあ、この映画の何が理解しにくいのか? すでに鑑賞した方には説明不要ですが、ずばりノーラン作品のトレードマークである時間軸操作。これを仕込んだことによって、今作もまたノーラン作品ならではの難解な顔を持つ作品となっています。その上、登場人物もやたら多い。

 

今作における時間操作は、キリアン・マーフィー演じる主人公・オッペンハイマーの視点による時間軸と、世界初の原爆製造の成功者である彼を栄光の座から蹴落としたルイス・ストローズなる人物(ロバート・ケネディJr.演)のそれ、2つの時間軸によって構成されています。「核分裂」と題されたカラーフィルムのパートはオッペンハイマーの視点、そして「核融合」と題されたモノクロパートはストローズの視点というふうに色分けされていて、カラーパートとモノクロパートが交錯しながらの進行。

ストローズはオッペンハイマーと同じくユダヤ人で、戦前から1950年代にかけて、アメリカのユダヤ人支援や核開発等の分野でフィクサー的な立ち位置で活躍した人物のようです。

原爆開発成功で時の人となったオッペンハイマーは、戦後のレッドパージの嵐の中でソ連のスパイとの嫌疑をかけられ、公職追放の憂き目を見ますが、陰で彼の失脚劇の糸を引いていたのがストローズだということは、アメリカでは知る人ぞ知る事実らしいですね。

ただ、そのいきさつを全く知らない日本人の私たちにしてみれば、オッペンハイマーのスパイ疑惑の聴聞会と、ストローズの商務長官就任公聴会の模様を交互に見せられること自体何がなんだかわからない。その意味で、この作品にはサスペンシャルな様相も漂っています。

ただし、サスペンシャルなムードにはときめくものの、2人の確執は実に卑小なストローズの私怨に端を発していて、はっきり言いますが、落としどころを知っても面白くもなんともありません。

ノーランは2人の確執の根底に「太陽を生み出す法則を手に入れ、時の人となったオッペンハイマーに対する、商人出身のストローズのコンプレックスと嫉妬心」を匂わせていますが、この期に及んでそんなちっちゃ~い怨念・・・傍らに核開発・核使用という人類にとってとてつもなく大きな問題が絡んでいる中で、この卑小極まりない確執が物語の縦糸になっていることの違和感!ハンパないです。

語るべきことが詰まった熱い題材に敢えて水を注いで冷やすような、あるいは、真ん中に餡が詰まったあんドーナツの真ん中を敢えてくり抜いてあんこのないあんドーナツにしたような(あんこは匂いだけ…)。

これ、巨匠だからこそ許される謎のひねり技ですよね。

 

もっとも、作品の温度を敢えてダダ下げるのは、クリストファー・ノーランの従来からの作風ではあります。

第二次世界大戦中の英軍のノルマンディー撤退劇を描いた『ダンケルク』にしても、やはり時間操作を目玉にして、戦争に対する怒りや悲しみに直接は踏み込まなかった。今作で主人公オッペンハイマー役に、敢えて静的で翳を帯びた佇まいのキリアン・マーフィーを据えたのも、そんな低温好みの現れかと。

キャストのベタなスターオーラや過剰な感情表現を排除し、一歩間違えば「地味」に転びそうなギリギリのラインでクールなルックに仕上げるノーランの美意識は、核という巨大なテーマを巻き込んだ今作でも例外なく貫かれている気がします。原爆の父の物語であっても、核問題が熱く語られるわけではないし、モラルを中心課題にはしない。劇中何度か「プラグマティック(現実的)」という言葉が出てきますが、本作自体がまさにプラグマティックに戦時体制下の科学者の行動を描いていると思います。

 

劇中オッペンハイマーはさらりと、

「我々は科学者だから核を使えばどうなるか予想できるが、一般人は結果が想像できない。だから使う必要がある」

と言い、原爆投下反対論を退けます。ドイツは降伏してターゲットからはずれたが、まだ日本があると。

まさにこの一言を無感情に言い放つために、キリアン・マーフィーというキャスティングがあったのではないかと思うほど、彼の冷え冷えとした目元の表情が活きてましたね。(キリアン・マーフィーの顔を見るたびに何故か『寒い国から帰って来たスパイ』というル・カレの小説のタイトルを思い出します。)

 

ただし、ノーランはオッペンハイマーの葛藤を描いていないわけではありません。ちゃんと表現しているんです。大袈裟なセリフや表情ではなく、実にクールで、映画的な手法で。

 

オッペンハイマーの脳裏に鳴り響く「音」

 

本作では、オッペンハイマーが登場する場面で、彼の記憶の中の或る音が繰り返し何度も使われています。

群衆がドンドンと床を踏み鳴らす音。それは、原爆投下成功の知らせを受けた「ハレの日」に、功労者オッペンハイマーの演説を待つ研究所の研究員たちが、興奮して床を踏み鳴らしながらオッピー(オッペンハイマーのニックネーム)コールをする、熱烈な賞賛の音です。

しかしそれが熱烈な賞賛の表現であるにもかかわらず、オッペンハイマーの記憶の中で、その音は何かもっと別の意味ーー脅迫的で不穏なーーを持っているようにも聞える。

暴力的なレベルの大音量でオッペンハイマーの表情にこの音を重ねていく(それも何度も)演出で、ノーランはこの音に圧倒的な賞賛と表裏一体のところにある批判、厄災の予兆、良心の呵責等々、オッペンハイマーの中で彼をかき乱していく葛藤のニュアンスを込めようとしたのではないでしょうか。

 

本作は、オッペンハイマーを、ナイーブな側面を抱えつつも、自ら天才であることを自認する自信家、かつ名誉欲も強く、ある面では傲岸不遜な人物として描いています。核が抱える「人道」という問題に関しても、核使用を強硬に支持し、核使用に反対する嘆願書への署名を募る研究者たちには与しなかった。

しかしその彼が、戦後は水爆開発に反対した。

どこかで心境の変化があったのか・・・本作はその心境の変化も、直截的には描きません。

ただ、劇中で、オッペンハイマーが恋人(フローレンス・ピュー演じるジーン・タトロック)とのセックスの最中にインドの古典の一節を読む場面があります。それはヴィシュヌ神の言葉で、

「我は死神なり、世界の破壊者なり」

というもの。オッペンハイマーは後年、まさにこの一節を引用して、自身を破壊神にたとえ、「世界は変わってしまった」と言ったと伝えられています。

神の力を手に入れたという恍惚と、世界を破壊したという自責の念、その両方が彼の中でせめぎ合っていたことを窺わせるエピソードですね。劇中での朗読は、オッペンハイマーの栄光と血にまみれた未来の伏線なんでしょう。

あの一節を思い出すと、オッピーコールの足を踏み鳴らす轟音は、ヴィシュヌ神の舞踏と、それがもたらす世界の破壊の轟音にも思えてきます。知性派クリストファー・ノーランらしい、クールで巧みな演出ですよね。

 

アメリカの栄光の物語という側面

さて、ここからは辛口になります。

この映画が何故、アメリカで大ヒットを遂げたのか。そして何故、今年のアカデミー賞で最多部門を受賞したのか。

不思議に思わなかった人も多いかもしれませんが、私にはとても不思議でした。

 

「原爆の父」の半生をテーマにしながら、核使用の問題について少しも踏み込んでいない上に、ストーリー構成の縦糸に使われているのは非常に些細な怨恨による復讐劇で、決して若者が飛びつくような娯楽映画でもなければ、問題提起が詰まった社会派映画でもありません。

アカデミー賞受賞に関して言えば、クリストファー・ノーランの作品なら『インターステラー』あたりで十分受賞に値したと思います。メッセージ性が薄いという点を言うなら、今作だって同じです。

さらに、最近アカデミー賞は出演者やスタッフのダイバーシティに非常にナーバスになっていたのに、今作に関してはかなりいい役回りを担ったラミ・マレックほかごく少数のキャスト以外はほぼほぼ白人男性だったのでは?

そう考えていくうちに、ふと、もしこの作品にアメリカ人にとって特別な魅力、アカデミー賞にとって特別な意義があるとしたら、「アメリカの勝利の物語」という側面ではないかという考えが浮かびました。

 

今年はアメリカ大統領選の年。日本では「ほぼトラ」、つまり共和党ドナルド・トランプ候補がほぼ当選確実のように伝えられていて、これまでトランプに否定的な報道ばかりを見せられてきた日本人には理解不能な状況!首をかしげている人多数です。でも、個人的には何の不思議もありません。トランプ氏が掲げるスローガン、

"Make America Great Again."(「強く偉大なる国・アメリカを、もう一度」ですかね)

が、今アメリカ人にとって悲願になっている。ずばりそういうことだと思います。

バイデン政権のこの4年間、アメリカの威信はどれだけ失われたか。

アフガンから撤退すればあっという間にタリバン政権が戻ってきて元の木阿弥に。ウクライナ戦争が実質ロシアとNATOとの代理戦争であり、アメリカが主導していることはもう周知の事実ですが(アメリカ政府も少しも否定していないように見えます)、そのウクライナ戦争も経過が思わしくない、イスラエルの暴走も止められず、不法移民の流入や警察官不足で都市の犯罪は爆増中・・・そりゃ"Make America Great Again."なる一言に期待したくなる気持ちもわかります。

 

この映画は、そんな今のアメリカ人の前に「かつての強いアメリカ」を再現して見せてくれた映画だったのではないでしょうか。

特に、何故アメリカが核開発競争でドイツに勝てたか、という点を指摘していること。アインシュタインやオッペンハイマーがそうであるように、当時物理学の有能な研究者にはユダヤ人が多かった。ところがドイツはユダヤ人迫害の国策を取っていて、ユダヤ人憎しの感情が核開発にとってマイナスになった可能性がある。劇中でオッペンハイマーがこれを指摘する場面がありましたよね。

人種差別のファシズム国家ドイツと違って、アメリカは積極的にユダヤ人研究者を起用し、開発に成功した。アメリカの自由と平等の精神が、研究を成功に導いたわけです。

そして見事に2発の原子爆弾投下を成功させ、たった1週間あまりで執拗に負けを認めなかった日本をあっさり降伏させた快挙!

日本人にとっては非常に残酷な事実ですが、原爆開発成功とその投下の物語は、アメリカ人にとっては間違いなく「アメリカの輝かしいサクセス・ストーリー」という一面があるということ。この映画の興行的成功とアカデミー賞における高い評価は、その事実を再認識させてくれるに十分なものでした。

 

戦勝国と敗戦国の決して埋まることのない温度差。

でも、だとしたら、日本人はアメリカ人と同じ目線でこの作品を観ることはできないし、むしろ、日本人は日本人のスタンスで、この映画を観るべきじゃないでしょうか。

 

人類は「抑止力」である核を手に入れた。さて、戦争はなくなっただろうか?

ひょっとしてアメリカ人に言わせれば、この映画は反戦映画なのかもしれません。たしかに、「核は抑止力」という考え方は今や世界の共通認識だし、この映画もそれを前提として作られています。「抑止力」であれば、核は兵器ではなく反戦の道具だ・・・そういう発想で、反戦映画と見る人もいるでしょう。

ただ、もし「反戦」がこの映画の主張であるとするなら、決定的に欠けているものがあります。

今、核を持っているロシアと、核を持っているアメリカ(の代理のウクライナ)が戦争をしているんです。核は抑止力として機能しているでしょうか? 今に限らず、第二次世界大戦後、アメリカは何度戦争をしたでしょうか? さらにまた今、戦術核の使用が現実化しようとしています。規模が小さければいいんでしょうか?

その問題提起がなければ、核や反戦をテーマとした映画とは言えません。

 

もう1つ、日本人以外の全ての人がスルーするとしても、日本人としては絶対にスルーしてはいけないと思うポイントがあります。

「抑止力」として開発されたはずの核を、アメリカは何故実際に日本に投下したのか?という疑問に対して、本作では劇中でアンサーを示しています(上にも書いたオッペンハイマーのセリフ「核兵器の威力を想像できない一般人に核の恐ろしさを見せるために、一度投下する必要がある」)。また、2発目の投下についても、マット・デイモン演じるグローヴス准将が「これで終わりではないことを示すために」と言っていますね。

ただ、もし核が戦争終結のために使われるのであれば、2発目はあくまでも1発目だけでは日本が降伏しなかった場合に使われるべきだったんじゃないでしょうか。ところが、8月6日の広島への投下から9日の長崎への投下まで、たった3日の間隔しかない。もちろん日本政府も原爆が開発されていた事実は知っていて、それがどんなものかもわかっていたはずですが、それでも3日では壊滅した広島の状況さえ掴めず、降伏の準備もできません。

しかも、広島と長崎では異なる種類の核爆弾を使っているんですよね。劇中にも出てきた研究所のテーブルの上の2つのガラスの壺、そこに入れられたビー玉がそれぞれプルトニウムとウラン・・・オッペンハイマーたちが開発した原子爆弾は、もともと2種類あったわけです。(トリニティ実験に使われたのは長崎型と同じプルトニウム爆弾)

2種類→2か所・・・そういうこと? だから降伏の猶予なし?

これが、「抑止力」としての核の使い方なんでしょうか。

本作はこの「3日後に違う種類の原爆を投下」という点を完全にスルーした。これでは、オッペンハイマーが少々苦悩して見せても、納得できません。

 

さらに一番がっかりだったのは、日本人が全く登場しないということです。

『ダンケルク』でも敵の顔は全く映像に出さなかったクリストファー・ノーランですが、今作でも原爆投下の被害者になった人たちの姿どころか、広島・長崎の街さえも、映像には一切映しませんでした。

核が抑止力として機能するためには、核の被害を一度目の当たりにする必要がある、と言って原爆投下を肯定したオッペンハイマーの姿を劇中に描いていながら、原爆の被害を映像には映さず、オッペンハイマーの開発した原爆で20万人以上の死者を出した日本人の苦しみを一切描かないとは。

 

もっとも、私はそこまでノーラン監督に腹を立てているわけではありません。先にも書いたとおり、クリストファー・ノーランの映画は良くも悪くもドライで、問題提起には関心がない。ただ、今作を観てますます戦争というテーマには向かない監督だという確信を深めただけです。

戦争を語るには、熱くなければ。そして敵の顔も描かなければ。

 

一方で、そもそも目下ウクライナ戦争を全面支援しているアメリカにおいて、今反戦・反核の映画は作りにくいのだろうな、という雰囲気は、今年のアカデミー賞授賞式を観ながらなんとなく感じたところです。

今回授賞式でガザ侵攻に抗議するバッジを付けた俳優たちがいましたが、バッジはつけていてもステージやインタビューで抗議を口にした俳優はいなかったし、トランプ氏については毎度皮肉を飛ばす司会者のジミー・キンメルも、この件については何も突っ込みませんでしたね。(唯一、『関心領域』の監督だけが、「大切なのは過去に何があったかではなく、今何をするか、未来に何をするかだ」と、話をぼかしながらも熱く訴えていましたが)

映画は世論に大きな影響力を持つ媒体だけに、一旦国家が戦争に関与し始めると、映画作りの現場の雰囲気は大きく変わっていくのだなと。

そういう意味でも、戦争をしている国の戦争にまつわる映画は、注意深く観る必要があると思います。

 

そんなわけで、私にとって『オッペンハイマー』は残念な映画であり、この映画のアカデミー賞受賞も残念な結果でした。