今でも忘れられない大伯母が嫁いだ家も、その地方では今でも名前だけは、鳴り響いている家だ。千坪以上の土地に家屋敷がある。以前、周辺には見渡す限り数万坪の土地を所有していた。


ほんの子供の頃、1年に数回の割合で連絡があり、大叔母を訪ねると、息子と住むだけのほんの数部屋以外は締め切った家屋敷をぼんぼりを持って、案内してくれたものだった。横1メートル、縦7, 80センチメートルほどの巨大なガラスの箱に入れられた日本人形が、灯りにゆらゆらと怪しく照らされた。わたしはこのときいつもぞくぞくと怖かった。


〔ううう・・・〕とわたしは暗闇の中で、からからになった喉から出そうな声を殺した。


浮気な夫に反抗して、京都の気に入った場所に別荘をもち、そこで趣味の人形作りに精をだした。人形の着物は金糸、銀糸の入った西陣の生地で、それを大伯母が全部縫ったそうだ。ガラスの中に広がる着物は、それはそれは華やかで美しい。


暗闇の中に浮かぶ人間の子供ほどのの大きさの人形は、立ったり、座ったり、首をかしげたり、さまざまだ。人形の顔は、これも大伯母が、

〔描いた〕と言っていたが、そのこちらをじっと見つめる切れ長の瞳はなまなましくて、人形とは思えない。綺麗だけでない。奥深くなにかこめられた感情が漂っていて、

〔ふん〕といわんばかりの怜悧そうな人形は、

〔弱虫やね、あんたは〕と、半分こちらを馬鹿にして笑っていた。

わたしの視線をからみとるようで、耐えられなくなり、床を見た。しばらくして顔をあげると今度はもう別の方向を見て、表情は硬く普通の綺麗なお人形さんだった。



大叔母とふたりきりが気詰まりで、

〔おばちゃん、ひとつ欲しいわ〕というと、

〔そう、持っておいき。おばちゃん、死んだらもういらんから〕と言った低い声はまだ耳に残る。フラットな声音だった。


また、この家のトイレが好きで、楽しみにしていた。暗く、汚い場所というイメージはこの家では全くない。半月のからかみを開けると磨きこまれた明るい広い場所で、いつもいい匂いがたちこめていた。

〔汚いところは綺麗にせんとね、もっともっときたのうなる〕と言う大伯母を、わたしは

よくわからないけれど、偉い人だ、好きだなあと思ったものだ。



西北の方向からこの家の敷地に入ると、長い道が続くが、その脇に、一の蔵、二の蔵、三の蔵、と3つの大きな白壁の土蔵があった。その隣には、大きな樽がひとつ並んでいた。漬物用の樽だとか。

一の蔵と二の蔵、二の蔵と三の蔵が地下室でつながっていて3階建ての土蔵に一度いれてもらったことがあった。

〔この子を入れて、中を見せてやって〕と女中にいい、後で大伯母も入ってきたが、

傍らにうずたかく積んである箱を開けて、あくる日の夜の祭事に使うから、と〔代々伝わる皿〕とか〔膳〕や頭の中にどこに何があるか頭の中に完全に入っているようで女中達に指揮をしていた。大伯母は、大きな声は出さないのに、みんなが

〔はい、はい〕と従順にあちこちに小走りに動き回るのは不思議な感じがした。


だれかが、指示したことができないと、ついと前にでて、

〔ほら、こうせんと〕と手本を見せた。皮肉っぽいようなあきらめたような表情が面長な頬のあたりに漂って、周りのひとたちは動作が少しだけスピーデイになったように思えた。


台所も、祭事には、数人いる女中や近所の人たちが料理できるようにとにかく大きくて、子供がまごまごしていられないほどの活気があった。


ご馳走ができると、親類やお客は座敷に上がり、宴会が始まった。庭にはむしろをひいてそこでもご馳走が並べられていた。

どんなにすすめられても、

〔いや、ここでよろしいですわ〕と遠慮して、むしろに座って機嫌よくご馳走になる人たちもいて、その人たちは近所の人たちや、以前の小作や使用人たちだった。


この家は、大伯父が亡くなっても、秋祭りなどの祭事をおなじように派手に行い、それを決断するのは大伯母なのだ。自分のしなければいけないことは淡々と必ず行う人で、母や祖母などは他人をほめることはまずないのだが、

祖父の姉に当たる大伯母さんにだけは、畏敬の目で見て

〔大伯母さんは一人でも祭事を取り仕切る、まねできんわ。偉い人や〕と噂していた。


数年たって、大伯母が倒れて、お見舞いに行った。元々すんなりやせているのだが、布団の厚みが感じられないほど細くなっていた。わたしの顔を見ると、ほろほろと涙を流した。そして、傍らの息子のお嫁さんに、

〔あの子に・・・〕とわたしが行くたびに開けてお小遣いを出してくれた引き出しを指で示して、お小遣いをやってくれ、と頼んだ。ピアノの先生だったお嫁さんは今は育児と介護で疲れていたのだろう、いまいましそうに脇を向いた。

わたしは、あわてて、持ってきたお花を縁側に置いて、近くの叔母の家へ行くからと大伯母に別れを告げた。



母や祖母は、わたしの話を聞いて、ひそひそとお嫁さんの噂話をした。

土地と家屋敷はあっても、今は現金収入が少ないから、内情は世間が思うほど豊かではないこと、育児と介護でお嬢様だったお嫁さんが疲労していること、などなどだった。

今は女中を雇う余裕がなくて、一人だけ午後、家政婦さんが来ているだけだとか。


伯母が亡くなって、10年以上たった頃、一度だけ立ち寄ったことがあった。家全体が収縮しているように見えた。一の蔵も二の蔵も三の蔵も、こんなに小さかったか、と驚いた。

家の周りを歩いてみた。あちこちの樋がさびたり、破れたり、ひどい箇所は、屋根からぶらさがっていた。


玄関にいって、

〔ごめんください〕と声をかけても誰の声もしなかった。


玄関の前の広い場所は、祭事の時には、従姉妹や遠縁や近所の子供達が20人くらい集まって、追っかけっこをしたり、缶けりやなわとびをしたりにぎやかだった。


お嫁さんは外出しているのだろう、そこから庭に回ると、池だけはあったが、たっぷりと水はあるのだが、木の葉が水底にも水面にも沢山浮いていた。もちろん大きな鯉も泳いでいないし、太鼓橋も灯篭などもも全て前のようにあるのだが、枯葉が積もり、汚れて、くもの巣が以前あったつつじの木にかかっていた。


わたしたちは、追っかけっこをして、池のまわりや太鼓橋まで走り回ったものだった。

〔こわいから、池に落ちんように〕と大人たちが言っているそばから、だれか親戚の男の子が池に落ちたことがあった。一瞬大人たちがどよめいたが、めでたい日だからだろうか、だれも怒ったりしなかった。


近所に住む叔母の家に行って、あの人形はどうなったのかと尋ねると、人形も蔵の中の器や屏風や骨董品も今はほとんどないのだ、と言った。


税金の支払いのために売り払ったのか、古い家に嫁いできたお嫁さんが、旧家ノイローゼにかかって、古いものは見たくもない、と骨董屋に売り払ったのか、自分の実家に持っていったのか、、だれも聞かないし、わからない、お嫁さんの実家だけが知っているだろうと答えた。


〔あの家、昔はお城みたいに思うたのに、なんや小そう見えたわ〕と叔母に言うと、、叔母は、

〔それは、あんたが、広い世界を見たからや。それでええ。物は物、物は頼りにならんわ。財産はなんぼあっても何があるかわからへん〕とぽつりと答えた。

それから、

〔大伯母さんは、何でもできた。綺麗で、書も絵も料理も文章もじょうずやった。みんなの憧れの的やった。けど、あんな一生は幸福ではないわ。不満も愚痴も何も言うたことはないけれど。女は損や、と大伯母さんが一度だけ言ってたわ〕とぽつんと加えた。


大伯母の死は昔になってしまったが、あんなに何でも秀でていて、やさしくて、宴会の折には、時に、玄人はだしの踊りを披露した。子供がいないせいか、誰にもよくしてやり、周りの人に尊敬されていたのに晩年は恵まれなかった。息子のお嫁さんに遠慮して、孤独に死んだ。


ひとは大伯母の一生をどう思うのだろうか、わたしに人形を見せて一巡していたとき、

〔もう、こんなん、あほらし。どっちでもいいのよ。全部なくなっても、どうしても〕


というような投げやりな気持ちが彼女の心から透けて見えたのだが、あれはわたしの思い過ごしだったのかしらん。なぜかいちばん目をかけてもらい、可愛がられた子供として、大伯母の心の中をのぞいたと感じたこともあったが、あの広大は屋敷で生きた大伯母は不幸だったが、幸福だったか、わたしには今でもわからないのだ。


時代だからといえばそのとおりなのだが、人間はだれでも幸福に生きる権利があるというのに、多分少女時代からの思いや希望をおし殺して、家や家族制度に縛られ、若さや才能を違った方向に注ぎこんで、大伯母は生きたのだが、大伯母の、あきらめきって心がここにないような顔が今でも忘れられないのだ。


現代に生きるわたし達は、選択肢がひろがり、ずっと自由を享受できる。昔に生きた女性たちと比較して、幸福なのだが、ほんとうにその自由を生かしているのだろうか。


わたしは、伝統のおかげで、折角の才能を生かしきれなかった女性たちが以前から周囲にいて、その人たちの、焦燥や、ため息や、あきらめを観察してきた。

だからこそ、今のわたしの世界を大事にしたいと思うのだ。