その翌年、10月だったと思う。寄宿舎に一本の電話がかかってきた。ドイツ語なまりの英語は、なつかしいロ-レからだった。一年前にプレゼントの箱が届いてから、たまにはカードがくるだけで忘れられていると思ったから、意外だった。

元気?わたしも元気でやってる、という挨拶のあと、

〔クリスマスはドイツで過ごすのはどう?是非来てちょうだい。姉のマンションで住めばいいわ。〕

〔ドイツ ・・・・。お姉さんのマンションにいるって?彼は?〕

〔その話は会ってからね。で、いつにする?飛行機の切符を送るから〕


その頃、ヨーロッパのガールフレンドがたくさんいた。夏は、スイスで山歩きや彼女の親戚や友人たちを回るスイス一周の旅行に招かれたし、オランダや、ベルギーやフランスにも彼女たちの両親や親戚たちに招かれて、お国ぶりや、宗教に基づいた伝統行事に新しい発見をして楽しんでいたが、ドイツへはまだ行ったことがなかった。

スイスやオランダはドイツ色が強いが、かれらは、ドイツに対して一種の恐れを抱いているように思えた。歴史的に,強大な国だから、わたしも行ってみたいという気持ちはあった。

イギリス人の生活にどっぷりつかっていたその頃、若いときは進路に悩むが将来のことも恋愛も決めかねて立ち往生していた。打開したかった。


オランダの友人宅で知り合った Philips のエンジニアからは Philips での就職を打診されていた。SONYのような日本のメーカーが見学にくるので、広報関係の仕事を探している、ということだった。仕事で英語と日本語が要求され、生活も英語が通用するとはいえ、オランダ語が話せないのにオランダで生活することがためらわれたし、それから、社会に出ることになんとなく自信がなく、さきのばしにしたい気持ちがあって、ぐずぐずしていた。


恋愛でも、年頃のせいか、相応の男性が複数周りに現れてはいたが、いったいどんなタイプの男性が自分に向いているのか分からないうちに複雑になって、相手が30才近い、それも将来を嘱望されている人だったりすると、結婚を期待されていることはわかったが、日本人の女の子=従順でおとなしい、という定式に馬鹿にされているような怒りも感じていた。わたしがそう見えるのはまだ自分の意見が確立していないせいで、このまま結婚ということになれば、イギリスで永住し、相手の生活に組み込まれてしまうことは明らかでそれに対する反抗や恐怖心もあった。

ヨーロッパ大陸からの留学生とも純愛めいた感情を持ち合っていたが、だれとも決められない、わたしの方向性が定まらないのがトラブルの元だったように思う。


女性は若いときは甘い蜜のようだ。何もしないでいてもミツバチが現れるが、未熟な存在だから、はっきりした意志をもたない。まちがっているのではないか、と思っても、理論的な相手の男性の意見に負かされることが多く、女性の立場から違う意見が言えるはずなのに、そこの理屈がいまひとつわからない。学問や知識をもってもっと高い場所をめざすことが大事なのでは、とわたしは考えていた。

 

煮え切らないわたしに、再三電話をかけてきて促すロレに、ようようドイツでクリスマスを過ごすことに決めたと告げた。でも、ロレの好意には感謝するが、おんぶに抱っこはいやだから、交通費は自分で負担をすることにして、学生割引で電車と船で行く、と言った。


たくさんのことが押し寄せているが、今ひとつ決めかねているわたしに、ずっと年上の知人で未亡人である日本人女性は、

〔あなたは幸せよ。皆、ひとつのことが起きたら、チョイスがないからそれにしがみついている。あなたはいくつもの可能性が押し寄せているのだもの。わたしなんかうらやましいわ〕としみじみ言った。

しかし、わたしは、失敗をしたくない、傷つきたくない、最適なものがほしい、と願っているのだが、将来こうしたい、という現実的な考えがまだなくて、不安で苦しかった。


ボーイフレンドを一人確保して将来に向けて着実に歩んでいる友人たちが - イギリス人やヨーロッパの女性たち。日本人の友人はいなかった- 迷わず将来を決めているという意味で、わたしには羨ましかった。


そのわたしを、

〔わたしのお気に入りのあんなに知的なSや、親切でハンサムでsweetなTやらを、天秤にかけて、おまけにあのBだって〕ぜいたくだ、〔日本人のくせに〕と陰口をたたく女性たちもいた。


12月半ば、ドイツ、シュツッツガルト駅に朝早く到着したわたしは、ロ-レとアマーリアの

出迎えを受けた。