わたしがお茶を大好きになったのはやはりイギリス
に住んだのがきっかけだと思う。
イギリス人は本当になにかと理由をつけてはお茶
を飲む。あるホテルに滞在していたとき、がちゃ
がちゃと音がしてドアが開けられ、ベッドにいる
わたしにお茶が運ばれたことがあってこれには驚
いた。early morning teaという。もともとは夫が
妻のベッドにお茶を運んでいくという伝統からき
ているらしい。確かに妻のベッドにお茶を運ぶ、
そういうことを気にせずやれる夫がイギリスには
いそうだ。しかし、この習慣は今では、多くの場合、
召使がいる家に限られるのでないかしら。
今までの習慣としては、お茶は、朝食時、11時と続き、午後も入れると、日に7,8回お茶の時間がある。社交のためにはafternoon teaがあり、薄いパンにきゅうりやえび、サーモンのサンドイッチ、ビスケット、スコーンなどが出され、会話を楽しむのだ。スーパーマーケットのレジ付近には特別セールの紅茶の紙袋が山と積まれ、年金生活者でもどんな階層でもお茶を買ってtea time を楽しむことができる。ところが、若者はネスカフェなどのインスタントコーヒーが好きだし、わたしの聞いたところでは、1970年ごろにはお茶とコーヒーの愛好家は半分づつになってしまったらしい。かれらも年をとるとお茶を飲むようになるのかもしれないけれど。
しかし、イギリスに住んでいると、周囲が伝統的イギリス人が多かったせいか、わたしもお茶愛好家になってしまった。(家で飲むお茶のことだけれど。外で飲むお茶はがっかりさせられることが多い。)コーヒーは濃すぎるし、そう何杯も飲めるわけではない。インスタントコーヒーだと飲んだ後、身体が冷えるような気がする。お茶だと、なんといってもお茶の葉っぱにほっとさせられる。忙しくていらいらしているとき、たとえtea bagでも濃くだしてミルクを入れるとその香りで自分を取り戻す気になるのだ。
よくお茶に招いてくれたイギリス人女性がいて、彼女の両親と歓待をしてくれた。直径25センチ位の缶にいろいろな種類のビスケットがたくさんはいっていて、たまにわたしの好きなチョコレートのビスケットがあった。普通のお茶だとごくごく簡単にお茶とビスケットで済ます。
ある時、お茶によばれた時、アフリカのケニアで病院を経営しているお兄さん家族と会ったことがある。男の子3人のうち、長男を寄宿学校に入学させるというので帰国していた。お兄さんはケンブリッジ大学のどこかのカレッジを卒業していて、卒業後すでに25年はたっていたはずだが、
カレッジの紋章のついた紺色のブレザーを着ていて、奥様はアフリカの太陽のおかげで、そばかすだらけで真っ黒に日焼けしていた。その家族もケニアでもお茶の時間は大事にしている、と言っていた。
わたしは、朝は必ず濃くお茶を入れる。小さな鍋にお湯を沸かして、organicの茶葉をスプーン2杯プラス1杯入れて、3分待ってスプーンでかき混ぜる。そしてマグになみなみと入れる。暖めたミルクをたっぷり入れた2杯のお茶とチーズトーストがわたしの朝食だ。正式なお茶の入れ方でないかもしれないが、いつのまにかこういういれかたになった。おいしければいいの。
イギリスではその昔、お茶が先か、ミルクが先か、で〔TIME〕紙に長々と論争が出たらしい。わたしは、お茶を先にいれるのは、単に工程に都合がいいからでこだわらない。お茶の濃さも上流階級ではカップの底が見えるくらい薄く、労働者階級では濃く、という傾向があるといわれているが、まあ、塩分の濃さも労働の少ない上流階級では薄くなりがちだろうから別にわたしは気にしない。自分にあったお茶の濃さはもう大体目分量だ。
お茶といえば、こんな経験もした。イギリスにいた時、ユーゴスラビア(現セルビア・モンテニグロ)人の女の子とたまたま知り合いになった。イギリス人のお茶好きの話になって、
「日本人もお茶をたくさん飲むんでしょう」と聞かれ、日本のお茶をごちそうすることになった。目の前に出された日本茶を見ても、なかなか飲もうとしない彼女は、もじもじしながら、
「ミルクとお砂糖をちょうだい。ないと飲めないの」と言った。
「日本のお茶は、お砂糖もミルクもいれないのよ」と答えたが、何回かの押し問答があって結局わたしはその子にお砂糖とミルクを出してやった。一口二口すすった後、彼女は、
「ごめんなさい、わたし、イギリスのお茶の方がいい」とおずおずと断った。
初めての海外であるイギリスでお茶の時間を経験し、お茶には砂糖とミルク、という固定観念があったのだろう。まだ21才だというのに口にするものは冒険はしないらしかった。もっともわたしも日本茶に砂糖とミルクという飲み物は
おいしいとは思わなかった。
複雑な歴史を背負った国からやってきた彼女は、確かスロベニア出身だと言っていた。ユーゴスラビア出身ということで知り合った女友達が数人いたが、
「あの子は好きだけれど、セルビアだから」
「あの子はいい子だけれど、クロアチアの人間だから」とわたしには分かりにくい話が時々出た。
あれから何年たったのか、幾多の紛争、内戦を繰り返して、2002年ユーゴスラビアの名前は消失。あの内戦の時、彼女はまだイギリスにいたのだろうか、また彼女の友人たちはどうしただろう。母国に帰って紛争に巻きこまれて悲惨な状況におちいってはいないか。あの頃わたしはいつも彼女を思い出していた。黒く長い髪、眉も瞳も真っ黒で皮膚は白くて背が高い彼女はほがらかな性格だった。イギリスの気候が合わない、といって時々泣きべそをかいていた。
彼女がどこか平和な社会に落ち着いていてくれることを願う。子供たちに囲まれて日本のお茶はおいしくない、と笑いながら話していてくれたら、と思う。