彼女は、
誰かを好きになるとよく働いた。
相手の好きなものを覚える。
疲れていそうなら、先回りする。
機嫌が悪ければ、
自分の言葉を飲み込む。
会いたいと言われれば、予定を空けた。
急に会えなくなったと言われれば、
「大丈夫だよ」と返した。
大丈夫ではない夜にも。
鏡の館を訪れたその夜も、
彼女は大きな紙袋をいくつも抱えていた。
「ずいぶんな荷物ね」
マダム・ショウが言った。
「彼に渡そうと思って」
紙袋の中には、
彼の好きなお菓子。
仕事で使えそうな小物。
以前、ほしがっていたシャツ。
「記念日なの?」
「いえ」
「誕生日?」
「違います」
「じゃあ、何かのお詫び?」
彼女は少し考えてから、首を振った。
「ただ」
「喜んでくれたらいいなって」
マダムは紙袋の中をのぞき込み、
それから彼女の顔を見た。
「あなたのものは?」
「え?」
「この中に、あなたが喜ぶものは入っているの?」
彼女は笑った。
「これは彼のためのものですから」
「そう」
マダムはそれ以上聞かなかった。
ただ、
鏡の前に置かれた椅子を静かに引いた。
彼女は腰を下ろした。
鏡に映る自分は、
少し疲れて見えた。
「好きでやっているんです」
誰に言うでもなく、彼女は言った。
「彼に頼まれたわけじゃないし」
「私が勝手にやっているだけだから」
「そうでしょうね」
「だから」
彼女は少し笑った。
「見返りを求めちゃいけないって」
マダムは、
細い眉をほんの少し上げた。
「まあ
ずいぶん厳しい契約ね」
「契約?」
「尽くすのは自由」
「寂しがるのは禁止」
「疲れても自己責任」
「大切にされなくても文句は言わない」
指を折りながら言って、
マダムは彼女を見た。
「その契約」
「いつ結んだの?」
彼女は答えられなかった。
本当は、
ときどき苦しかった。
彼が喜ぶ顔を見たかった。
役に立ちたかった。
それは嘘ではない。
でも。
その奥にはいつも、
小さな怖さがあった。
何もしなければ、
自分には愛される理由がないような気がした。
断ったら、嫌われるかもしれない。
不満を言ったら、
面倒な女だと思われるかもしれない。
だから彼女は、
相手が喜びそうなものをひとつ差し出すたび、
自分の望みをひとつ引っ込めた。
「尽くすことが悪いわけではないわ」
マダムが言った。
「誰かを喜ばせたいと思えるのは、あなたの素敵なところでしょうね」
彼女は、
鏡の中のマダムを見た。
「でもね」
マダムは、
彼女の足元に並んだいくつもの紙袋へ目を落とした。
「愛されるために自分を消すなんて」
「一番、割に合わないわよ」
彼女は笑いかけて、
やめた。
それからしばらく、
鏡の中の自分を見ていた。
彼に何を渡せば喜ばれるかは、
いくらでも思いついた。
けれど。
自分は、何をしてもらえたらうれしいのか。
何をされたら悲しいのか。
何を我慢すると、少しずつ苦しくなるのか。
本当は、
どんなふうに愛されたかったのか。
そちらは、
すぐには答えられなかった。
帰り際
彼女は紙袋をひとつ開けた。
中から、小さな箱のお菓子を取り出す。
「これ」
「私も好きなんです」
「では、一つ食べて帰れば?」
「でも」
彼女は笑った。
「彼に渡す分が減っちゃいます」
マダムは呆れたように、箱を見た。
「一個で消える愛なら」
「お菓子より先に、賞味期限を確かめたほうがいいわね」
彼女は、
今度こそ笑った。
箱を開ける。
そして、
一つだけ。
自分のために選んだ。
誰かを好きになるたび、
自分まで差し出さなくていい。
そのことを彼女が心から信じられるようになるまでには、
まだ少し時間がかかるのかもしれない。
それでも今夜。
自分の好きなものを、
一つ思い出した。
まずは、
それくらいでいい。
それじゃあまた、鏡の館で。
ごきげんよう。