「今後の人生の在り様を見極める糧をあなたに与えたい。」
1.「変われるかもしれない」という漠然とした思いを持つ前の私
荒くれの男たちから「親父さん」と呼ばれていた土建業を営む父と、そんな父を気丈に支え続けた専業主婦の母の姿は、夫婦の在り方として私の中で幼少期から大変印象深く刻み込まれたように思います。
男は強くたくましく。女は男に寄り沿い、かしずいて生きるもの。
そんなイメージでした。そうであるなら、私も父のように強い男について守ってもらう生き方が、私が女として女らしく生きる一番の生き方だとも思っていました。
そのせいか、大正ロマンと言われた竹久夢二の絵がなぜか好きでした。
彼が描くたおやかで繊細で、今にも倒れてしまいそうな弱々しい女性の姿に憧れました。強い男は、きっとこういう人を守ってあげたいにちがいないと思いました。
ところが現実はそんな憧れとは程遠く、見るからに体格も良く人一倍健康体とおぼしき我が容姿がそこに・・。
それは憧れとは真逆の現実でした。そんな自分を知ってか知らずか、そしてそれはあまりにもの現実とのギャップに対する負け惜しみだったのかもしれません。
いつの間にか、竹久夢二が描く幸薄いその姿に(私にはそう思えた)私は決してこうはなるまいと思った事も事実でした。
良いも悪いも感情をむき出しにする父。それをおろおろしながら見守る母を横目に、母は父がいなければ何もできないように思えて、気がつけばそんな母を上から目線で見ていた私でした。今思えば自分のとんだ思い上がりに唯々、猛省しかないのですが。
母は強かったのです。何せ8人の子供を育てあげたのですから、それだけでも決して弱々しい女とは言えません。
酒癖の悪い父に(へきえき)していたように見えてはいましたが、実際はひたすら父に尽くし、父の事業が倒産した時も母は、子育ての内職の造花の金粉にまみれながら父の為の酒代を稼いでいました。
夕方になるといつも母のお使いで、の一生瓶を持たされて「2合だけ下さい。」と、近所のお店に買い物に行かされた私は、お酒を飲めばお決まりのように感情をむき出しにする父なのに、何故母は・・と思いつつ、それ以上に母の父に対する優しさが、幼心に身に染み入るように伝わってきました。そして幼心に感じたそれは、今に至る私の心の根幹に根付いているような気がしてなりません。
父も又気がつけば母の料理を「母さんの料理が一番だ」と褒めていました。
母が漬けた四季折々のお漬物は私の味覚にしっかりと刻み込まれる程、私にとっても絶品でした。
父の事業が倒産したのは、私が小学生低学年の頃で、そこからは決して裕福とは言えない家庭環境ではありましたが、それでも私は仲の良い両親の末っ子として、今思えば涙が出るほど悔やまれることばかりですが、私自身の未熟さ故の生意気さを引きづりながら愛情たっぷりに育ったと思えます。
地元の高校を卒業しても尚、両親の過保護をいいことに職をいくつか変えては、まさに図に乗った20代前半を過ごしながら「このままではまずいな・・」と、どこかで将来に対しての不安が脳裏をかすめていたように思います。
それでも相変わらずの未熟さを引きづりながら、流れのままに25歳で結婚。
第一子の長女出産と同時に夫と始めた自営スナックは、16年間続けましたが、二女の出産を機に子育てを中心に考えた私は夫に委ねて本業から少しづつ離れるに至りました。
機を同じくして、居酒屋チェーン店が全国的に出店され始めたのは丁度その頃でした。又、唯一飲んで歌える場であったスナックから、客足は徐々にカラオケボックスへと飲食業界に大きな変化が生じました。
今思えばその時期こそが、小さなスナックの経営を軸として物事を捉えていた未熟な私たちが想像だにしなかった、まさに昭和の時代から平成に向けたある意味、飲食店の大きな転換期ではなかったかと思えます。
客足が日毎に減っていく中、家計を何とか切り盛りすべく私は自分にできることをとPOP資格を独学で取得し、自宅を拠点に当時地元で一番店舗数が多かったスーパーにご縁を頂き、手描きチラシの版下作成という仕事を一手に請け負わせて頂きました。
こちらも時代の流れに沿って発注者がPOPの機械を導入するに至り、やがてピリオドを打つことになりましたが、この仕事は約14年間続けました。
その頃も依然として「このままではまずい」という一抹の不安は私の中で続いていましたが、私がいくら頑張ってみたところでPOPの発注数が増えるわけもなく、かといってす術もないままスナックの客足が更に減少してくるようになると、それまでの「不安」は最早「恐怖」に感じられるようになっていきました。
2.「変われるかもしれない」と思った瞬間の私
そんな折、東京在住の姉から「宅地建物取引主任者」という国家資格のお話がありました。不動産業界に身を置く姉は当然の様にチャレンジするとのことでしたが、「これからの時代、女性が活躍するにはこの資格は大いに役に立つよ」との事でした。
「国家資格が取れたら、自分に自信を持てるかもしれない。」
瞬時にそう思いました。
全てが中途半端。強気で接する人を目の前にしただけで何故か経垂れてしまう弱い自分。更に、そこまで来ても尚、私の中のどこかで竹久夢二の女性像を良しとする自分を否めないまま未だに夫の背中に見え隠れする自分。
かと思えばその一方で、それにしてもこのままではまずい・・と、現状に緊迫を感じずにはいられない自分。
まさに二分した自分が揺れ動いていました。
今まで本気で真剣に取り組んで頑張って、頑張って、自分が勝ち得たものが何一つないから自信がないのだ。そう思いました。
「もしかしたら私、変われるかもしれない」
そう思った瞬間でした。
やるっきゃない!!と思いました。
3.「変われるかもしれない」と思った後の私
希望を胸に次の日、早速書店で姉の勧めてくれた取引主任者資格取得のための本を一冊購入しました。
正直、愕然としました。
本の2~3ページに目を通した後、「こりゃ~無理だわ・・」と思わず本を閉じました。
思えば私、高卒といえども中学校時代からまともに努力らしき努力をした覚えがなくスポーツは程ほどでしたが、小説を読む事と大好きなイラスト画に喜びを見出すことしかできない学生時代を過ごしまして、成績に至ってはいつも中途半端で、どちらかというと後ろから数えた方が早かったのではないかと思えるほどだったのです。
「何もこれじゃなくてもいいんじゃないの~?!」
先ず、逃げの一手が脳みそを駆け巡りました。
今在る目の前の「そこからの一歩」を何とか拒否しようと、あらゆる思いが頭の中をうごめきました。
結局、その2日後の11月から自主勉強を始め、翌年の10月に受験。
我ながら、生まれて初めての「本気」の甲斐あって何とか合格致しました。
平成02年10月。長女が12歳、次女が9歳の時でした。
因みに私は37歳でした。
それまでの私は、頭を左右に振ればカラリンコロン♪と軽快な音が鳴りそうなくらい無知でした。本当です。
ジェームズ・アレンの「原因と結果の法則」という本は、その後の私の人生に大きく影響した本ですが、自然界のありとあらゆる森羅万象のすべてが一定の法則に従い「蒔いた種通りの実がなる」ようになっているのです。
仏教でいう「因果応報」です。
種は蒔かないと生えない。知識も学ばないと入ってこない。知り得ないのです。
種は蒔かないことには生えないのです。
「強い男にすがって生きるのが女の道?!」みたいな、まるで演歌の歌詞のような感覚を引きづって、突発的に何かが起こると女々しさを全開にして強気を思わせる夫の背中に見えかくれする自分。でも、本当はその一方で「何か違う・・」と、ず~っと思っていた。
そして、あの時の「もしかしたら私、変われるかもしれない」がきっかけとなってチャレンジした宅建主任者(現在は宅建士)の資格取得により、それまで周りに揺らぎ捉われ続けブレブレだった私の人生はそれを機にいよいよ大きく変動し始めました。
今思えば、すべてがこうなるように決まっていたかのようです。
それまでの、私にとっては「負」としか思えなかった物事のすべてが、いずれやってくるであろうその日の為の試練であったのだと思えました。
それは過去の「負」と思われたすべてがタイムリーでプラスに活かされるようでした。まるで大きな力に操られるかのように物事の一つ一つが展開していきました。今ではその一つ一つが大きな一つになったかのようです。
そして何よりも有難いことは、いつの間にかこのように理解し得る自分になっていたことです。
今、私に在るのは20年間に渡り耕作し続け得られた「豊かさ」という果実。
「もしかしたら私、変われるかもしれない」と思ったあの一瞬から、20年間に及んだ学びと経験は、あの頃の自分からすると今はまさに180度転換した人生となりました。もちろんかつての不安や恐怖は過去の遺物となりました。
「もしかしたら私、変われるかもしれない」
あの一瞬がなかったら今の私はないのです。
それは誰にもある一瞬です。
私があなたの「変われるかもしれない」と思えるきっかけになれば私の人生でこんなにも嬉しいことはありません。
どれだけそういう方を増やしていけるのかが残りの人生、私がチャレンジしていきたいことなのです。
これこそが私にとって一番悔いのない後悔のない人生だと言い切れるのです。
ゴールはありませんが、全力で歩んでこの人生を終わりたい。
私の人生が今後どのようになるのかはわかりませんが、より素晴らしくなることだけは確信しています。
そして、あなたの人生もより素晴らしくなることを私は確信しています。
共に人生を歩んでいければ幸いです。
金田光子