日本人の多くは城=天守閣だと思っている人が多く、

「天守がない=城がない→何もない」と認識していることも少なくありません。

その認識が意味していることは、それほど日本人の深層心理に「城=天守」と刷り込まれているのではないかということです。

 

本書では天守の構造や様式、意匠といった基本的な事項にはじまり、

現存する天守あるいは既に失われた天守であっても図面から構造が復元可能なものについて考察をしています。

 

現存天守の事例として、初代熊本城天守とみられる熊本城宇土櫓

(並みの城であれば天守で通用する規模の櫓であり、大小天守に匹敵する「第三の天守」とも呼ばれています)や初代松本城天守とみられる松本城小天守についても考察を加えています。

 

そして天守の歴史として、資料から一定程度は復元可能な安土城天主の特質と存在意義について

考証しています。

 

当初は天下人の城の天守とその配下の大名の居城の天守とで存在意義が異なっており、

大名の居城の天守はあくまで防衛の拠点、指令所としての役割を強調した構造となっており、

格式ある建築物であった天下人の城・安土城天主との違いが明らかになっています。

 

同じ秀吉の居城でも、信長配下の大名であった時代に築かれた姫路城天守(秀吉時代)と

天下人になって以降の居城である大坂城天守(豊臣期)とでは持っている機能が違い、

後者は秀吉によって普段は施錠されており、賓客をもてなす空間あるいは宝物庫として利用されていたことがわかります。

 

安土城天主にも史料によれば1階の部屋を「納屋」と表現するなど、

純粋な居住空間ではなく宝物庫として使われていたのではないかとみられる節がありました。

 

天守のこうした格式は早くに廃れ、

城主の権威の象徴として外観のみを重視するようになり、

明文化こそされていないものの五重の天守について新築は事実上規制され、

一部から瓦葺きではなく板葺きにするなどして四重にするなど

制約を搔い潜る努力が行われてきました。

逆に言えば、それだけ大名たちは権威の象徴としての天守を、

その外観の重を求めていたことがわかります。

 

また、城郭建築に関しては廃藩置県を画期としてそれ以前に建てられたものが現存建築、

それ以降のものは文化財指定の必要条件である築50年以上を経ていても現存天守に含まれないという特殊な世界でもあります。

廃藩置県を以て、城は歴史的な役目を終えたということでしょうか。