ラウドネスは2000年にオリジナル・メンバーでの活動を再開し、

20081130日にドラマーの樋口宗孝(以下「ひぐっつぁん」)が永眠するまで

このラインナップでの活動を継続していました。

 

その後もラウドネスはひぐっつぁんの後任として鈴木“あんぱん”政行を迎え

現在に至るまでメンバー・チェンジすることなく活動を継続していますが、

原点となる再結集がどのようにして行われたのか、

そしてこの編成による活動は当初から何年も続く予定だったのか、

以下に記した各メンバーの自伝及び『打魂 樋口宗孝インタビューズ』の記述を中心に改めて確認したいと思います。

・『高崎晃自伝 雷神』(以下『雷神』)

・『二井原実自伝 真我』(以下『真我』)

・『山下昌良自伝 重音』(以下『重音』)

 

言うまでもありませんが、ラウドネスは1981年、解散したロックバンド・レイジーのギタリストの高崎晃(以下「タッカン」)とひぐっつぁんを中心に結成されたヘヴィメタルバンドです。

 

当初はレイジーのベーシストだった田中宏幸も参加予定でしたが、

二井原実(以下「ニイちゃん」)のオーディション後に辞退、

ベーシストはオーディションにも立ち会った高崎の幼馴染である山下昌良(以下「マー君」)となり、1981”THE BIRTHDAY EVE~誕生前夜~でデビューしました。

 

ラウドネスの活動は順調に進み、念願だった海外進出を果たしたものの

1989年にニイちゃんを解雇しアメリカ人ヴォーカリストのマイク・ヴェセーラを迎えました。

(第二期ラウドネス)

 

1991年にはマイクも脱退、元フラットバッカー~E.Z.Oの山田雅樹を迎え

アルバムの制作に取り掛かりますが、デモテープ制作後にマー君が脱退、

後任はXを解雇されたばかりの沢田泰司となりました。(第三期ラウドネス)

 

1993年に泰司とひぐっつぁんが脱退し、1994年にアルバム”HEAVY METAL HIPPIES”では

ドラマーに元フラットバッカー~E.Z.Oの本間大嗣を迎え、ベースはタッカンが兼任する形でレコーディングが行われ、アルバムにともなうツアーには元アンセムのベーシスト柴田直人が参加。

ツアー終了後に両名の正式加入が発表されました。(第四期ラウドネス)

 

1994年時点でオリジナル・メンバーがタッカン一人になったラウドネスが、

なぜオリジナル・メンバーでの再結集という道を選んだのか。

そのきっかけとなった出来事はレイジーの再結成にあったと思っています。

 

理由は不明な点が多いのですが、ひぐっつぁんがラウドネスを脱退する際にタッカンとの間に相当なしこりがあったようで、1996年にロッキンfのイベントでひぐっつあんがニイちゃん、ラウドネス結成前にニイちゃんが所属していたアースシェイカーのギタリストだった石原慎一郎、元ブリザードの寺沢巧一と結成したSLYと第四期ラウドネスの出演順で揉めたという話(『柴田直人自伝』より)や、

何よりレイジー再結成に向けて井上俊次がひぐっつぁんにコンタクトを取った際「おもしろそうやな。でも、タッカンは何て言うかわからんけど」と発言し、タッカンは「樋口はなんて言うてんの?」とトゲトゲしい雰囲気だったといいます。(下記の記事を参照)

 

参考記事:レイジー再結成のいきさつに触れています。

※現在は有料記事です

 

レイジー再結成や、SLYの活動休止後ひぐっつぁんが始めた偉大なドラマーのトリビュート・アルバムのプロデュースにが参加し、

その第一弾である”COZY POWELL FOREVER”の発売に伴うツアーにもタッカン・マー君・ニイちゃんが参加し、ベーシストは第三期ラウドネスのメンバーだった泰司の予定でしたが急遽出演とりやめに(本人が後に語った所では練習のし過ぎで腱鞘炎になったとのこと)。

マー君の参加が決定し、オリジナル・メンバーが全員揃う事になりました。

こうした機会を通じてタッカンとひぐっつぁんの関係が修復されたことはオリジナル・メンバー再集結へのハードルを下げることとなりました。

 

1999年、第四期ラウドネスでオランダのフェスティバル「ダイナモ・オープン・エア」に参加した際、タッカンは「これをオリジナル・メンバーでやったら、もっとお客さんを興奮させられたんちゃうかな?」と感じたと『雷神』で語っています。

 

こうした経験を経て、タッカンの中で「もう一度オリジナル・メンバーでラウドネスをやるべきではないか」という考えが生まれてきたものと想像されます。

2000年にラウドネスは東名阪ツアー「寺ピカソ・ネパール展2008 『宇宙人とデザイン』」を最後に第四期メンバーでの活動を終了しました。

 

一方、脱退したメンバーに目を向けるとニイちゃんはラウドネスを解雇された後

ソロ活動を経てデッド・チャップリンを結成。1992年まで活動を続けますが自然消滅し、

アースシェイカー解散後の石原慎一郎のソロ活動に参加する形でSLYに参加、

ラウドネスを脱退したひぐっつぁんも加わり1998年まで活動を続けました。

 マー君はラウドネス脱退後1994年にspAedを結成しますが、

(SLYへの参加要請もあったとのこと)

アルバム3枚とシングル2枚を出しながらもライヴ活動はワン・ツアーだけで

199711月に解散しています。

 

1998年にSLY活動休止後のひぐっつぁんはトリビュート・アルバムのプロデュースをしながら

新バンド、ブラッド・サーカスをマー君と結成。

ギタリストには前述のトリビュートで知り合った横関敦を迎えるもヴォーカル探しに難航、

最終的に横関とランス・オブ・スリルというバンドをやっていた土橋宗一郎を加えて

アルバム・リリースにこぎつけたのは2001年の事でした。

 

1999年、新人女性ヴォーカルにシャ乱Qのはたけ、ハウンド・ドッグの鮫島秀樹、樋口宗孝というメンバーで新バンドRose of Rose結成しますが、ラウドネスやブラッド・サーカスとの掛け持ちが上手くいかなかったのかファースト・アルバムのリリース以降目立った活動をしていたことを示す情報は見つかりません。

 

当時は複数のバンドを掛け持ちする例はあまりなく、なおかつひぐっつぁんは「そのへんについて不器用な男でもある」(『重音』)ため、オリジナル・ラウドネスでの活動が本格化した結果ブラッドサーカスの活動が本格化する事はなかったのでした。

ひぐっつぁんが当初ラウドネスに再結集しての活動に乗り気でなく、

当初アルバム1枚、ツアー1回という条件で了承したのも、

そうした不器用な面が影響していたのでしょう。

その一方でニイちゃんはラウドネスとX.Y.ZAという2つのバンドを以降も掛け持ちしていました。

 

ここまでラウドネスのオリジナル・メンバー再結集の経緯をまとめたので、

冒頭に掲げた「この編成による活動は当初から何年も続く予定だったのか」という問いに

一つの結論を出したいと思います。

 

『重音』及び『樋口宗孝インタビューズ』によれば当初オリジナル・メンバーでの活動はラウドネス結成20周年という節目での活動で、アルバム1枚、ツアー1回だけの予定だったと語られています。

『真我』でも「あくまで単発というか、期間限定の話でしかなかった」と語られており、

2つのバンドの両立が条件であったとはいえパーマネントな活動を前提としたものではないという認識です。

 

ただし、これが発起人のタッカンとなると『雷神』で「その時点でもう、絶対そのまま続いていくものだと疑わずにいたけども」と語っている他、『ヤング・ギター』誌200011月号のインタビューではオリジナル・メンバー再結集について「一発屋的なビジネスをするなら、僕は絡まなかった」というオリジナル・マネージャーである中下氏のコメントも掲載されていました。

 

当初の予定がどうであれ、ラウドネスはアルバム”Spiritual Canoe~輪廻転生~とツアーに十分な手ごたえを感じて、オリジナル・メンバーでの活動を継続していくことになります。

次のアルバム“PANDEMONIUM~幻魔降臨~では、前作の原点回帰的な要素は排除し、

ラウドネスなりのモダンなメタルを志向していくことになったのでした。