『太平記』において、主人公である足利尊氏と武家の棟梁の座を争うライバルとして位置づけられている新田義貞ですが、本当にこの二人は対等の存在だったのでしょうか?

 

否、断じて否!

 

鎌倉幕府なる軍閥がこの世に産声を上げる前であればまだしも、治承4年に源頼朝が平家打倒の兵を挙げ、足利氏当主・足利義兼の後に新田氏当主・新田義重が頼朝の軍門に下った時点で対等とは言えない関係にあったことは明らかなのです。

 

義兼が頼朝から上総介に推挙され、頼朝と相婿関係になるなど源氏一門の御家人の中でも「門葉」と呼ばれる上級御家人の扱いを受けたのに対し、義重は一般御家人としてその生涯を終えました。

(山名義範や里見義成のように義重より先に頼朝の下に参陣した新田一族は義範が門葉として扱われ、伊豆守に任じられるなど厚遇されています)

義兼の子・義氏も承久の乱を戦い抜き、上級御家人としての道を歩んでいきました。

(頼朝の乳母子の結城朝光からは同格扱いされていましたが)

 

その後の両者の関係は、義兼の長男義純と新田義兼の娘、義重の曾孫の政義と義氏の婚姻と

着実に同族である足利本宗家への接近を重ね、「氏」の字を使用するようになるなど

足利一門化の道を歩んでいきます。(これは谷口雄太『足利一門再考』で著者に寄せられた「姻戚関係の成立によって新田流が足利一門化したとは必ずしもいえない」という批判に対する再反論に他なりません)

 

その後の朝氏(義貞の父にあたる)の朝兼への改名など、足利一門からの脱却を図ると指摘します。

この事は義貞と同時代の史料に義貞が尊氏の一族扱いされたことと矛盾するようにも思えますが、

尊氏と同族かつ歴然とした格差があったためとも考えれば不自然でもないかもしれません。

 

いずれにせよ、鎌倉幕府滅亡後の建武政権でも尊氏と義貞には縮まりはすれど確実に格差があり、

建武政権から離反し義貞も尊氏と対立することによりある意味で対等な存在になれたと言えるかもしれません。

 

本書は義貞やその後継者たちの奮戦に触れ、新田本宗家の終焉までを描いています。

シリーズ名が示す通り、両者の対立関係を軸にした新田氏の歴史という印象を受けました。