これは、大日本帝国軍の運命を象徴した戦闘機だった。
どうもAEGISです。
休みという事で長いブログを。
今回は現在も絶大な人気を誇る旧日本海軍実質の最終型式の戦闘機です。
その華々しいデビューからの悲しき運命。
☆零戦の名前の由来
何気にわれら日本が誇った名戦闘機の名前の由来を知らないものが多い。
名前は紀元2600年(昭和15年1940年)に採用されたため、零(レイ)で零式艦上戦闘機。
だからほんとはレイ式艦上戦闘機になる。
ではなぜ現在零戦をみなレイと読まずゼロと読むか。それはアメリカ軍がZEROと呼んだ事に由来する。
だが実際アメリカ軍は零戦に対し(ZEKE)と言うコードネームを付けたもののZEROの方が通りが良かったようである。
☆華々しいデビュー。
零戦のデビューは華々しい物だった。
初陣(制式化直前)は日華事変中の1940年の中国漢口である。
零戦の特長はその飛行距離と抜群のドッグファイト性能だった。
その戦闘では時に中継基地を利用したものの約1000km離れた中国軍基地を楽々と攻撃した。
その後、中国軍は退避行動をとることが多く空中戦は殆ど無かった。
しかし、9月13日の爆撃作戦後引き返すと見せかた零戦13機が退避行動から戻った中国軍戦闘機27機を捕捉。
なんとその際、こちらの損害を全く出さず敵戦闘機部隊をたちまち全機撃墜させるという衝撃的な戦闘を繰り広げた。
その頃のイギリスとドイツはバトル・オブ・ブリテン の真っ最中。
イギリスもドイツも戦闘機は300km進出して空中戦するのがやっとだったため、零戦の飛行距離は特筆する物だったと言える。
太平洋戦争勃発前のフィリピン爆撃作戦の際は零戦は台湾より爆撃機の護衛をしたのだが、最短でも800kmはあったため、当時フィリピンの極東米陸軍総司令であったマッカーサーはZEROが空母より来襲したと疑わなかったそうだ。
☆非力過ぎたエンジンとそれを補うために行われた極限の軽量化
零戦の当時の強さの秘訣は軽量化の一語に尽きる。
プロトタイプ、十二式艦上戦闘機の設計開始が1937年。
その頃世界情勢は緊迫しており列強国各国が少しでも強力な兵器開発に血道を挙げていた。
日本と言えば産業、技術とも多くの分野で遅れたまま、列強の一員と言う意識だけが国を支配している状況だっ
た。そんな中、欧米列強国各国を恐怖に陥れた戦闘機が生まれたのは奇跡に近い。
その奇跡は超々ジェラルミンという軽量かつ高強度のアルミ合金の開発が成功したことにある。
そして完成した零戦は当時の列強の戦闘機に比べなんと60%程度の重さに抑えられ、わずか1000馬力程度のエンジンで抜群の上昇性能と運動性を獲得したのだった。
また零戦は当時の戦闘機では珍しい20㎜機関砲を搭載。当時主流だった7,7㎜や12,7㎜機銃に比べ、大きな破壊力を有していた。
☆「恐怖のゼロファイター神話」の崩壊する転機
零戦はこうした特長を持った共にベテラン搭乗員ばかりだったため、太平洋戦争の初戦で無敵の戦いをつづけた。
しかし、そんな零戦の無敵神話にもあっけなく終わりが来る事となる。
それは誰でも学校の近代史でならったであろう大日本帝国海軍が大敗を喫した1942年6月のミッドウェー海戦である。
この裏では二つもの神話崩壊が進んでいた。
一つはこの海戦により多くの零戦ベテランパイロットが戦死したこと。
そしてもう一つ。それは同時に進行していたアリューシャン侵攻作戦にてほぼ無傷の零戦がアメリカ軍に鹵獲された事である。
↑アリューシャンで鹵獲された零戦
その零戦はその後アメリカ本土に持ち帰られ陸海軍パイロットに操縦させ本質に迫ろうとした。
そして発見されたのは軽量化を重視しすぎたことによるパイロットを守るための防弾版が無い事、燃料タンクに被弾してもある程度安全な防洩式で無かった事、ぎりぎりの機体強度のため、時速600km以下の急降下に耐えられない等の弱点だった。
改良機の実験中、空中分解する事故も起こった。
つまり零戦とは攻撃を重視した一極特筆型の戦闘機であり、素早く敵の背後に回り込み必殺の20㎜弾を叩き込む事に特化されていたのである。
☆ドッグファイトに持ち込むべからず
零戦の弱点を見抜いたアメリカ軍の対零戦の策は絶対にドッグファイトに持ち込ませないで攻撃する一撃離脱戦法だった。
連合国軍の戦闘機は時速800kmでの急降下でもびくともしない頑丈な設計の物が多かったため、零戦は追撃できずこの戦法は大変有効だった。
また、防弾装備の少ない零戦は当時のアメリカ軍戦闘機の主力兵装だった12,7㎜機関砲の弾丸でも致命傷になるケースが多かった。
☆設計時からギリギリだった零
零戦対策が功を奏し始めたと同時にアメリカ海軍はF4UコルセアやF6Fヘル
キャットなどの新型機を多数戦線に投入した。同陸軍でもP-47サンダーボルト、
P-38ライトニング、P-51マスタングなどの新鋭機が主力となった。
零戦は頑張っても水平飛行速度は560km以上出せない。それに対しこれらの米
軍新鋭機は2000馬力エンジンにモノを言わせた。
100km以上の差をつけられた状況でどう戦えと言うのか。
日本もそれなりの対策をとらなかった訳では無い。
零戦の改良も続けつつ後継機制作も行われていた。
しかし、産業基盤が貧弱だったため、思うように進まない状況だった。
それに零戦の改良と言ってもドイツのメッサーシュミットBf109のように伸びしろが有ったらな良かったが元の設計がギリギリに作られ過ぎていたため、高馬力エンジンを積めば機体が持たないという事が有った。
☆終戦のその日まで
零戦の後継機として設計されていた同じ三菱が開発した烈風だった。
←烈風
この頃の世界の戦闘機は零戦のようにドッグファイトを主体としない一撃離脱戦
法の機体が主流になっていた。敵機より速く飛び、機を見て素早く弾を叩き込み
さっさと逃げる。そして面倒の多いドッグファイトは極力避ける。ヨーロッパ戦
線、太平洋戦線でも、この戦い方がエースパイロットに共通する戦い方となって
いた。
それに対し…頭の固かった海軍上層部は零戦の過去の栄光を忘れられず烈風
に対しても零戦並みかそれ以上のドッグファイト能力を求めた。
しかしそのためには主翼面積を大きくする為に速度低下を招いた。
第二のネックは大馬力で信頼性の高いエンジンが完成しなかった事。大戦後期
の2000馬力エンジンとしては中島製の空冷エンジンがあったのだが、直径を小
さくしようとするあまり造るのが難しく故障が多いエンジンとなった。
烈風は当初その空冷エンジンを採用する予定だったがあまりにも不調続きで性
能は期待外れだった。
結局烈風は最後まで戦力化されずすでに老兵の零戦は敗戦のその日まで最前
線にとどまる運命になった。
参考本 PHP文庫 『第二次世界大戦の「軍用機」がよくわかる本』 ブレインナビ/編著
画像 ウィキペデイア他




