ヒューレイフソン培地(Numeri日記より) | ヌメラーのヌメラーによるヌメラーの為のNumeri日記

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おもにNumeriでお気に入りのブログ転載します。Numeri知らない人はゼヒ読んでヌメラーになりましょう。
※私が書いてるのではありませんので悪しからず(^^)/

「それはまるで夏の日のシャワーのようだね」

あまり親しくない人ととの会話、特に職場の女子社員と会話していると、どう言ったらいいのか分からない、どう対処していいのか分からない、道路で明らかに人糞としか思えないものを踏みつけてしまった時のような、なんとも困惑した表情をされることが多い。平たく言うならば困り顔というやつだ。

これは何も、僕からモルボルみたいな凶悪なブレスが出ているわけでも、喋りながらスプリンクラーの如く唾液が飛散しているわけでもない。いや、全くないとは言い切れないし、たぶん臭いんだとは思うのだけど、主たる要因はそこではない。問題は会話の中に「比喩」や「例え話」を多用する部分にある。

実は日記の冒頭からココに至るまで、既に4回も使用しているのだけど、僕は日常の会話においても比喩や例え話が多い。別にそれ自体は問題がないのだろうけど、僕の場合はその比喩が逆に分かりにくいらしく、しばし混乱を招くことがある。

一般的に、こういった比喩や例え話というのは、分かりにくく伝達が困難と思われる事象を分かりやすくし、円滑にコミュニケーションを図るために用いられる。複雑怪奇な現象を単純な話に置き換えることが多いだろうか。

例えば、仕事上の恐ろしい強敵がいて、この人を説得しないと自分の部署どころか会社全体が死に瀕するという危機的状況があり、誰がその強敵に立ち向かうか相談した結果、その強敵に徹底的にやり込められて精神病みたいになった人が多数いる前例を踏まえて、精神的に病まないだろう、病んで死んでも会社的にあまり痛手ではない、むしろ病んで欲しい、といった様々な理由で、なぜか僕が生贄として差し出されることになり、ちょっとビビりながらその強敵に対峙すると、貴様では役不足とばかりその強敵の手下みたいな人が数人出てきて、なんだ、この手下なら弱そうだし楽勝じゃねえか、俺が全部蹴散らし、その勢いで本丸もぶっ倒してやるわ、とか思ってちょっと余裕かましてたら、その手下の時点で手に負えないレベルの強さで、ボロボロにされて死亡遊戯、泣きながら遁走したという大変いたたまれない事件があったのだけど、この悲しき事件を説明しようとするとすごく複雑だし長いし分かりづらい。こんなもんキャバ嬢だったら話の途中で髪を指でクルクル巻き出すレベルのエピソードですよ。

けれどもね、それもこれも例え話を使うと一発ですよ。この複雑怪奇、それでいて泣けるストーリーをどう一発で伝えるか。もう簡単ですからね。「サイバイマンとヤムチャ」これで一撃ですよ。ほとんどの人に一瞬で伝わるし、それと同時にあのヤムチャのボロ雑巾のような悲しい姿が連想され、どれだけ僕が切なく悲しかったのか、胸が痛い惨劇だったのか、その心情すらも同時に伝えてくれるのです。

こうやって比喩や例え話、メタファーなんかはとても便利で、表現の幅を広げることに一役買っており、コミュニケーションを円滑にするツールなわけなのだけど、しかし、そこには一つの重要な必須項目が存在することを忘れてはいけないのです。

件のサイバイマンとヤムチャもそうですが、これ、ほとんどの人にちゃんと伝わるとは思うのですが、例えば生まれた時から旧家の遺産相続争い巻き込まれて親族の手によって地下の座敷牢みたいな所に幽閉されていてドラゴンボールを知らずに育った人、ですとか、そうでなくてもドラゴンボールなんて知らない、なんて人には絶対に伝わらないんですよね。言うなれば、伝える方と伝えられる方、相互の共通認識、これが例え話には必要不可欠なのです。これがなければその例えは途端にコミュニケーションツールとしての役割を失い、B'zが出てきてもおかしくないレベルでバッドコミュニケーションになるのです。

冒頭の文章について考えてみましょう。「それはまるで夏のシャワーのようだね」これは職場の女子社員との会話中に僕が発した「例え」なわけなのですが、これが全然彼女には伝わらなかった。一見すると、汗だくに暑い夏に浴びるシャワーのように爽快でスッキリサッパリ、そんな表現のように思えますが、それならいくら彼女がバカでヤリマンといえども伝わっているはず。この表現にはもっと別の側面があるのです。それでは実際にその時の会話を見てみましょう。

「ワタシのカレシがあ、パチンコに夢中でえ」

「へえ、そんなに夢中なの?」

「もう毎日っていうか、朝から並んでる」

「彼氏がギャンブル狂いだからウンザリなの?」

「いや、別にそれはいい。ただ、オシャレだったのにどんどんパチンコ屋おじさんたちみたいな風貌になってきた」

「なるほどね、周りに同化してきたんだ」

「もうオッサンにしか見えない」

「それはまるで夏の日のシャワーのようだね」

これでポカーンですよ。この頭がサナトリウムみたいな彼女もポカーンですよ。なんでこの小粋な比喩がわからないんですか。絶対におかしいですよ。とか思ったのだけど、ここに書き出して共通認識という観点で考えてみると、これはポカーンとならざるを得ないですね。

この表現は、いつの間にか周りの環境に同化してしまう様を表したわけなのです。懸命な閲覧者様ならご存知だとは思うのですが、僕はよくガス代とか電気代を滞納して止められちゃうんですよね。そうなると、シャワーがすごい困難で、水道は出るんですけどガスがないから冷水が出る。いくら夏とはいえ本気の冷水ってかなり冷たいですし、心臓麻痺的な危険が伴うんですよね。

けれども、ガス止められた状態でシャワー使ったことがある人ならご存知たとは思うんですけど、夏って暑いじゃないですか、やはりかなり暑いですから、水道管の中で待機している水たちはけっこう温まってるんですよね。それこそ熱湯って訳にはいきませんが、ぬるま湯程度には温まってる。まあ、3秒も出せばそのぬるま湯もストックがなくなってしまい、まるで世間のような冷たさの水が勢い良く出てくるんですけど。つまり、冷水が嫌な僕はその神が与えた熱量を利用して、わずか3秒に賭けてシャワーを済ませるのです。

そういった事情を踏まえて、水道管の中の水が周りの暑さに同化して熱量を持ち出すことを、パチンコ屋でオッサンに同化していく彼氏の例えとして用い、さらにはそのシャワー3秒に賭ける刹那な生き様をギャンブラーの生き様に投影させた高度な表現だったのですが、彼女には全く伝わらなかったのです。

でもね、これって彼女が悪いんじゃないんですよ。確かに彼女はヤリマンですし、頭の中サナトリウムですし、巨乳のくせに露出の低い服を着てますし、こう、折角巨乳なんですからもう放り出すレベルでボルルンって感じの服を着てですね、どうです?触ってみませんか?とか自らオススメするくらいの気概が欲しい。おっぱい触りたい。

とにかく、彼女は悪くなくて、この表現、ガスとか止められて冷水の風呂に入らざるを得なくなった人にしか分からない表現なんですよね。僕のように、電気と水は生きてるので給湯ポットで沸かしたお湯で風呂入った経験がある人とかでないとちょっとこの夏の日のシャワーはピンとこない。

問題はどれだけ共通認識があるかで、その如何によって伝わりやすさが異なってくるのだけれども、それじゃあ誰にでも分かりやすい事柄を比喩として用いて多くの共通認識を目指すってのが普通だと思うのだけど、往々にしてそういった事象はインパクトが小さく、伝わったとしても衝撃が少なく印象に残らない。マニアックで、とても共通認識は得られないだろうという自称の方が、伝わりにくいかもしれないけど伝わった時のインパクトは絶大だ。

そういった意味ではとても伝わらないようはレベルの比喩を用いるのは一か八かの大勝負、良質のコミュニケーションを得るために常に勝負しているとも言える。

けれども、やっというか何というか、この年になって嬉しいやら恥ずかしいやらなのだけど、そういったリスキーな勝負としての比喩ではなく、情報を伝えるためだけの比喩でもない、そんな比喩が存在することにやっと気がついてしまった。それが表現としての比喩だ。

村上春樹の文章に、以下のような表現がある。「街路灯は同じ間隔をたもちながら、世界につけられた目盛りのようにどこまでもつづいている。」(海辺のカフカより)

僕はこの表現を見た時、なんとも言えない衝撃を受けた。単に街路樹がずーっと等間隔で立っていただけだ。それをそう伝えればいい。どう考えても「世界につけられた目盛りのように」といった比喩は不要なのだけど、なんだろう、これはこれで美しい。手放しで美しい。

この世の中に等間隔で街路樹が立っていると言われてピンとこない人はほとんどいない。世界につけられた目盛のようにと言われて、ああ、等間隔ね、と初めてピンとくる人もいない。そういった意味では、この比喩は情報伝達としての役割を全く果たしてはいない。

じゃあ何でこの表現は存在しているのかというと、単純に文章を飾る装飾としての役割で、情報を伝えるわけではなく、文章を美しいものに昇華させている、それだけなのだ。あってもなくても構わない、けれどもあると美しい、そんな表現が存在することにこの年まで全く気がつかなかった。ということで、今回はそういった表現を意識して、比喩表現さを痛感した事件の顛末をしたためてみたいと思います。どうぞ。

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痔だ。

どうにもこうにも尻の穴が痒くて仕方がない。まるで尻の穴の周辺で地域の祭りが催されているんじゃないかと思うほどに尻の穴が痒い。いや、痒いのは今に始まったことじゃない。もう何年も前からずっとずっと、僕は尻の穴が痒かった。

人間は欠陥の多い生き物だ。多くの生き物は合理的に進化し、その弱点を世代を重ねることで克服していく。それは言い換えれば、非合理的な個体の淘汰だ。進化とは淘汰の輪廻にほかならない。けれども人間は知能を発達させ、便利な道具や理論を数多く発見してきた。それは非合理な部分もカバーし得る万能さで、非合理なものは淘汰されなくなった。

人類は、弱点を進化ではなく合理化で克服する道を選んだのだ。その代償としてウンコの後に尻を拭く、という行為を支払っている。言うまでもなく多くの人類はウンコをした後にトイレットペーパーで尻を拭く。そうしないと気持ち悪いし、そのうち痒くなってきて大変なことになる。これは明らかに人類が進化仕損なった弱点であると思う。

例えば、古代から人類がウンコした後に尻を吹かずに生きていたとしたらどうだろう。おそらく、尻が不潔になりやすい構造をした個体は感染症などで死に絶え、代を重ねるにつれてウンコをしても尻が汚れない尻の穴構造をした人類だけが生き残る。今頃はきっと、ウンコをするときにパカッと尻の穴が開いてぽとっと落として、また尻の穴が畳まれて格納されるような構造に進化していたに違いない。もしくは、尻の穴を汚さないようなウンコを出す生物に進化していたに違いないのだ。

けれども、どこの時代かは定かではないけど、誰かが尻の穴が痒い状態を避けるために拭く、という行為を発見してしまった。そこからが人類の悲劇の始まりである。人類は尻の穴を変化させることを諦め、その辺の葉っぱで拭いていたものが、紙に、さらに柔らかい紙に、果てはウォシュレットへと、尻を綺麗にする道具ばかりが進化してきた。

けれども、それは生物としての進化の放棄にほかならない。尻を拭かずに生きていれば今頃すごく便利な構造のアナルを手に入れていたはずなのに、それでも今日もウンコの後に尻を拭く、それは生命としての負け組の姿だ。

今からでも遅くないんじゃないだろうか。僕はウンコの後に尻を拭くことをやめた。確かにウンコをしたあとに猛烈に痒くなってアナルだけを取り外して爪を立ててゴリゴリと掻き毟りたい気分になるけど、それでもグッと我慢した。人類の進化のため、子孫の進化のため、敢えて僕は礎となろうじゃないか。

そんなこんなで、ウンコの後に尻も拭かず、ウォシュレットも使わず、ただただボンとウンコしてそのまま立ち去るという西部劇時代の凄腕ガンマンみたいな格好良さを発揮していたのだけど、そうなるとね、アナルに異変が巻き起こってくるんですよ。

ある時でした。今日もウンコしちゃうぜ、でも尻は拭かないよ、と意気込んでウンコをし、便器に残された産物を見た時、時間が止まりました。

ウンコが赤い・・・。

あのですね、茶色であるはずのものが赤い、これって凄い衝撃ですよ。職場のブスどもが「カンダタ」ってヤツのことを臭いとかキモイとか言って盛り上がってて、「カンダタ」って酷いニックネームだな、すごい悪口言われてて可哀想、とか哀れんでいたら、自分がその「カンダタ」だったって知った時くらいショックですよ。

とにかく、茶色であるべきものが赤ってのは大変なことで、上京したての女子大生が、垢抜けようと美容院に行って髪を茶色に染めようとしたら、赤に初められてパンクロック風になったくらいショックというか、別にこれはそんなにショックじゃないや、染め直せばいいし、よくわかんない、とにかくウンコが赤かった。

あまりにも恐怖を感じましてね、普段の僕は、ビックスクーターにまたがって夜な夜な暴走族の頭蓋骨を叩き割って廻ってる豪放な男なのですが、そんなワイルドマンもウンコが赤いのだけは大恐怖。泣きながらインターネットで調べましたよ。

インターネットの世界ってのは便利なもので、調べたらすぐに「肛門.jp」だとか「バーチャル肛門検診」だとかボコボコでてきましたね、そこでウンコが赤いことについて調べたんですけど、まずはその赤さがどの程度のものか、それによって症状が変わるようなことが書いてあったんです。

具体的に言うと、でっかいオニヤンマみたいなサングラスをかけた浜崎あゆみみたいな女が着がちなコートの赤みたいな色の出血、分かりにくいんでフォント色変えますけど、このフォントくらいの赤は新鮮な血ですから、肛門もしくは肛門付近の出血である可能性が高い。逆にちょっと色濃い目の22歳くらいの新卒の女の子の乳首の色みたいな色、分かりにくいんでこの辺のフォントくらいの赤黒さというか茶色さになると腸の中とかそんなレベルの体内的な要因になるらしい。

自分のウンコに混ざってた赤はどんな色だったかなって思い返してみると、どうも記憶の中にある血便はこのフォントくらいの感じなんですけど、さすがにそれはありえないのでもう一度頑張って血便を出してみたところ、やはりこのフォントくらいの赤さでした。

つまりは、肛門表皮もしくは肛門付近に何らかの異変が巻き起こってるんだろうってことで、ちょっと勇気を出して指で肛門をなぞってみた、まるでピアノを調律するかのようにそっとなぞってみたんですけど、なんかね、グロいんですよ。

いやね、普通、肛門っていうかアナルってヌラッとしてるじゃないですか。肛門のシワとかあるでしょうけど、全体的にバリアフリーなはずでヌラッとした平面であるはずなんです。少なくともこれまでの僕のアナルはそうだった。そうであるはずだった。けれどもね、なんか異常にゴツゴツとした突起の感触があるんです。それも一つじゃない。複数。

僕も薄々痔じゃないかなって思ってたんですけど、イメージ的にイボ痔って一個のイボがモロンっている感じじゃないですか。なのにこの手触りは何か違う。メガフレアのボコボコみたいな感じで無数のイボがアナルに存在してやがるんです。

これはどんな状態なのか視覚で確認しておく必要がある!って思ったんですけど、なんてことはない僕デブなんで自分で自分のアナルって見れないんですよ。仕方ないので、ノートパソコンに標準装備されているWebカメラみたいなのを駆使して確認したんですね。

35歳、今年で36歳になりますけど、ノートパソコンの画面の上に向かって腰を突き出してアナルをカメラに映そうとしてる姿は悲しいものがありましてね、原始の生物の求愛行動のような姿勢でノートパソコンにアナルを見せつけたのです。

そしたらアンタ、アナル周辺に無数の突起物が等間隔に、まるで世界につけられた目盛りのようにどこまでもつづいている。なんか比喩を間違えた気がするけど気にしない。

とにかく、せいぜい痔だろう、くらいに思っていたのだけど、こりゃ予想以上の何かが僕のアナルで巻き起こってると恐ろしくなり、急いで肛門科とか病院を調べたんですけど、いきなり肛門科ってのは野球初めてすぐにメジャーに挑戦するようなもんですから、肛門のスペシャリストとか揃ってそうで怖いじゃないですか。なので近くの病院の外科に駆け込んでみたんですけど、これが失敗の始まりだった。

まず、近くの病院の駐車場で自問自答ですよ。僕はこのアナルの異変を痔だと信じて疑わないんですけど、痔の症状的にこんなメガフレアみたいな状態はありえないんと思うんですよ。

それに、痔って椅子に座るのも苦痛なくらい激痛が走るイメージがあるじゃないですか。けれども血は出るのに全然痛くなくて痒いくらい。本当にこれは痔なんだろうか。そんな疑問が湧き上がってきたのです。

もしかすると、これは進化の過程じゃないだろうか。ずっと尻を拭かなかった僕のアナルが、拭かなくても良さそうな構造に進化した可能性がある。僕だけ他の人とは一段違う新しいステージの人類にアセッションされた可能性がある。などと考えていても猛烈にアナルが痒いのはどうしようもないので、大人しく病院に行きました。

病院の受付に行くと、けっこう流行ってる病院なんでしょうね、若い女性から死にかけの老人まで多種多様、カワイイ看護師さんが忙しそうにしてたりと、ザ・病院みたいな風景が広がっていたんです。

受付に行き、保険証を提出します。20代前半でしょうかカワイイ女性が保険証を眺めながらニッコリと微笑んでくれます。

「今日はどうされました?」

この瞬間、戦慄が走ったね。いやいや、別にアナルが痒いってカミングアウトするのが恥ずかしいとかそんなことは言わないですよ。こんなもん、今までの様々な失態に比べたら恥ずかしくも何ともない。むしろ誇らしいレベル。

何に戦慄が走ったのかというと、カワイイ女の子に合法的にアナルとか言えちゃうことに戦慄が走ったのです。あんたね、街で見かけるカワイイ女の子にアナルとか言ってごらんなさい、間違いなく通報されて御用になるから。けれどもね、ここでは普通に許される。こんな素敵なユートピアがありますか。

「いや、アナルが痒くてですね、ブフフ」

なぜかちょっと笑いながら言っちゃったんですけど、実に堂々としていたと思います。けれども受付の女性も動じる様子もなく、淡々と対応。この冷徹な対応がまた興奮する。

「他に症状はございますか?」

「あ、便に血が混じってます」

「痛みはないですか?」

「ありません、痒いだけです」

そんなやりとりを淡々と続けていたんですけど、そこで衝撃の質問が投げつけられたのです。

「どんな痒みですか?」

痒みにそんなに種類があるとは思えない。けれどもそう聞かれるということは、僕が知らないだけで色々な種類の痒みがあるのだろうか。ここでふとある考えが頭の中に浮かんだのです。

こういった質問がなされる以上やはりどんな痒さなのかってのは病気を見極める上で重要なのだと思うのです。

それだけ、適切にこのアナルの痒みを伝えなければなりません。実際にこのカワイイ娘にウンコでも塗りたくってやって、痒くなってくるのを待って「そんな痒みです」と伝えられたらいいんですけど、さすがにそれってできないじゃないですか。

そうなると、痒さを伝えるために比喩を使うしかないんです。そして、前述したように比喩には共通認識を利用して情報伝達を行うための比喩と、文章を美しくするための比喩の二種類があるのです。そして、普通に考えれば情報伝達としての比喩を用いることがこの場合は絶対的に正しい。「アナルばかり集中的に蚊に刺されたみたいに痒い」こう伝えれば絶対に情報は伝わります。

けれどもね、少し考えてみてください。おそらく彼女は疲れてるんです。毎日毎日、患者さんのそういった情報伝達の比喩、機械的な比喩を聞かされているに違いありません。さすがにウンザリ、仕事を終えて家に帰れば彼氏が求めてきて、これまた機械的に「芳江のココ、洪水みたいになってる」と機械的手マンに機械的比喩、もうウンザリ!つまらない男!そう思ってるに違いありません。

ここは美しい比喩じゃないか?ここで美しい比喩を使うことによって「この人は違う」と彼女に思わせることができる。すると僕に対して興味が出てきて、そのアナルのブツブツ見てみたいなーって気持ちが芽生えてきて、まあ、おセックス的なことも可能かもしれないじゃないですか。ここはもう、綺麗で美しい表現を使うしかない。

「木の葉の緑ってよく見ると一枚一枚違う色なんですよね。それらの木の葉が風に吹かれてザワザワしてるのを見ると、まるで僕の緑を見てくれ私の緑を見てくれってそれぞれが自己主張しているように見えてカワイイんです。ええ、そんな感じでアナルが痒いでんす」

ほれ見たことか!なんという美しい表現!これにはさすがの彼女もウットリ、僕のアナルを見たくなってるに違いありません。そんなに言うなら別に抱いてやってもいいけど、どうだ、感動して言葉も出ないか。もう大洪水か。

「はい、それじゃあお呼びしますんで座ってお待ちください」

完、全、無、視。こりゃまいったなーって思いつつも自分の比喩は間違ってなかった。確実に美しかったはず、と言い聞かせながら待っていると名前を呼ばれたので診察室に入りました。

そこにおわしたのは見るからに偏屈そうなお爺ちゃん医師。なんか死にそうなくらいにヨボヨボで、診察中にご臨終しちゃうんじゃねえかってレベル。こんなヨボヨボの人に僕のアナルを預けるなんて不安なんですけど、凄い若い女医さんとか出てきてもそれはそれで恥ずかしいので良しとして丸椅子に腰掛けます。

「お尻の穴が痒いと」

爺ちゃんはこちらを見ずにさっき受付で書いていた問診表みたいなの見ながら喋ってるんですけど、なんか明らかにその口調が怒ってるんです。何故か怒りの口調で次々といつから痒いかとか痛くはないのか出血はどうかとか質問してくるんです。僕も怒られるんじゃないかってビクビクしながら答えていると、またもや禁断の質問が。

「どんな痒さだ?」

やはり痒さの種類ってのは重要みたいで、どういった感じで痒いのかを伝えなければなりません。とにかく、ここでも美しい比喩を使わなければならない、そう思ったんですけど、お爺ちゃんなんか怒ってますし、ちょっとボケてるっぽい感じなんで変な解釈で勘違いされて肛門の切除とかになったら泣くしかないので、ここはきちんと、情報伝達、共通認識による比喩を用いることにします。このご老人と僕の共通認識、と考えた結果、全然思いつかなかったので

「インキンみたいに痒いです、インキンが一番盛り上がってる時みたいな痒さです」

僕の中で男はみんなインキン、みたいな考え方があったので、これなら分かってもらえる、共通認識いけるって思って切り出したのですが、すげえご立腹されましてね。

「お前はバカか!」

ってすげえ怒鳴られちゃったんですよ。まさかアナルの治療に来て怒鳴られるとは思わなかった。しかも、それから爺さんの怒りのツボに入ってしまったらしく、インキンの痒さなんか分かるかっていう怒りのお言葉に始まり、クドクドクドクド長いこと説教。

アナル診てやるからズボン脱いでそこのベッドで横になれって言われたんで、アナル見やすいだろうと思って下半身裸になって女尻シリーズのポーズですよ。そしたら

「お前はバカか!横向きだ!」

と、どうやら横向きの体育座りの状態で良かったらしく、女尻シリーズの姿勢のまますげえ怒られました。

診察自体は普通で、やはり進化とかそんなんじゃなくて痔であるという結論で、アナルを不潔にしていたことが原因だったらしく、「何か心当たりあるか」ってキレながら聞かれたんで

「はあ、ウンコの後にお尻を拭かないからっすかね」

とかヘラヘラしながら答えたら、看守に逆らって懲罰房に入れられた囚人みたいな勢いで死ぬほど怒鳴られました。

「ウンコの後尻拭かないバカはじめてみたわ!」

とか烈火のごとく怒鳴られて、僕も、アナル丸出しの状態で

「いや、人類の進化が」

「ウチの猫でも尻拭くぞ!お前は猫以下か!」

「新人類はお尻を拭かなくて良いように進化を・・・。」

「お前はバカだ!」

結局、アナルを清潔にするように、ちゃんとウンコしたらお尻を拭くよう、と三歳児に諭すように教えられ、僕もちょっとあまりの怒られっぷりに半泣きになってました。そして医師は怒りながらも優しく僕を諭します。

「ラーメンを食べたらお金を払う、それと同じで大便をしたらちゃんと拭く、そうしないと治らないよ」

なに言ってんだこのジジイ、とか思いはしませんでした。すごく伝わったのです。一瞬で理解した。ラーメンを食べたらお金を払う、そんな当たり前のことを比喩として用い、尻を拭くことの大切さを教えてくれたのです。それでいて、ウンコをラーメンに例えるなんて美しすぎる。共通認識ができ、かつ美しい比喩、それこそが大切なのかもしれません。比喩を制することこそがコミュニケーションを制することなのです。

結局、痔を治すために人類の進化は諦めてウンコの後にお尻を拭くことにしようと思ったのですが、こう、なんていうかアナル周辺には突起物がまるで世界につけられた目盛りのように存在するじゃないですか。ボコボコしてて拭けないというか、拭いても拭き残しがあるんですよ。

これでは完璧に拭くことができず、さらに痔が悪化してしまう。困り果てた僕は職場のトイレがウォシュレットだったことを思い出し、思いっきりウォシュレットで洗い流そうとしたのですが、誰かが最強の水圧に設定していたらしく、殺人級の水流が痔を直撃し、今まで痛くなかった痔にとんでもない激痛が走り、トイレの個室内で本気の断末魔の悲鳴をあげて飛び跳ねてました。

何か破れた的な感覚と共に、大出血したらしく、内股をつたって真っ赤な鮮血が流れてくるんです。体温の恩恵で温かくなった鮮血の水滴が。それはまるで夏の日のシャワーのように。