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井尻正二展@市立小樽文学館

小樽で開催されている「足裏で地層を読む人―井尻正二展」を見てきた。

歿後20年ということで市立小樽文学館が企画したものだ。

 

 

 

井尻正二は、小樽出身の古生物学・地質学の巨人だ。東京大学理学部地質学科での学生時代、哺乳類化石の研究をテーマにしたが、当時の学問領域の常識を越えて歯の組織学的研究にまで進んだ。その後、実験古生物学の開拓を先導した。

 

デスモスチルスの化石の前での記念写真(1951年9月)。

(*)写真のラベルでは「デスモスチルス」となっているが、1950年に岐阜県土岐市で発見されたパレオパラドキシアの骨格化石(泉標本)だと思われる。泉標本は当時「デスモスチルス」と鑑定されたが、後にパレオパラドキシア属が提唱されたため、現在はパレオパラドキシアとなっている。泉標本の頭蓋骨は井尻正二・亀井節夫(1961)によってデスモスチルス気屯標本(1933年発見)とともに記載された。また、体骨格は写真に並んで写っている鹿間時夫によって記載された(Shikama, 1966)。

 
 

デスモスチルスに関する研究資料。

井尻は学位論文「Desmostylus japonicusを中心とせる哺乳動物歯牙形態発生理論に関する一考察Invaginations hypotheses」により1949年に九州大学から理学博士を授与された。同名の論文が1938年の地質学雑誌に掲載されている。

 

骨格模型の写真はいわゆる長尾復元。

 

 

デスモスチルスの歯化石の研究資料。外観や切断面のマクロ写真。

 

 

デスモスチルス歯化石のエナメル質の顕微鏡組織写真。

 

 

また、井尻は、化石研究会や地学団体研究会の設立への参画等、団体研究の組織化を推進し、野尻湖の発掘調査では大衆による大規模発掘へと発展させた。

 

 

第10次野尻湖発掘調査の記録映画。

 

 

昭和37年に地元住民が発見したナウマンゾウの歯化石。これが後の大発掘調査のきっかけになった。

 

 

発掘の一場面。自分が見つけた物の正体が何か興味津々で見つめる少女。

 

会場ではこの記録映画がエンドレスで放映されていた。そのおかげでこの展覧会の魅力が格段に上がっていたと思う。

 

 

会場では大きな本棚に井尻の著作がぎっしり並べられていた。

 

こんな子供向けの本や絵本も多くあった。

 

 

岩波新書『化石』の関連資料。

 

最終稿の封筒(何故か築地書館のもの)には、「かけるなら、書いてみろ!」とあるが、編集者とのやりとりにウンザリしていたのだろうか?(笑)

 

原稿と原図。

 

 

盟友・湊正雄(北海道大学教授)との共著『図説・地球の歴史 前世界の日本』の挿絵。

 

左上「ニッポン竜」(ニッポノサウルスのこと)、右下「デスモスチルスの群れ」

 

 

一方、この展覧会では触れられていないが、党派的な立場からプレートテクトニクスを否定し、日本における受容を10年遅らせたとの批判を受けている。井尻は科学方法論の基礎固めを目指して弁証法を深く研究したが、マッハ主義の例に見られるような特定の哲学的世界観を指導原理にすることの危険性については、どのように理解していたのか、興味がある。

 

 

さて、今回の展覧会に期待していたものの一つが、孤高の詩人吉田一穂との交友関係についての資料だった。

 

吉田一穂から献呈された『古代緑地』の校正刷。

 

 

率直に言って、教条主義化した地団研のドンという井尻像と、大の権威主義嫌いで自分が「先生」と呼ばれるのも嫌がったという井尻像が、どうにも上手く結びつかなかったのだが、あの狷介な詩人が交友を続けたのであれば、素の井尻正二はきっと後者だったのだろう。要するに、社会組織のメカニズムに組み込まれると面倒くさいだけだ、と言うことだな。

 

松岡正剛は「千夜千冊」で次のようなエピソードを紹介している。

彼が井尻の自宅を訪問すると、書斎兼応接間の壁一面に書棚のような棚が取り付けられていて、そこに紙や木の箱に入った化石標本がびっしり並んでいた。

――この話は良いな~。この一点で親近感が湧くというものだ。