今回はメモ的な感じで記します。雲南市大東町の阿用城は桜井宗的の城として尼子氏との間で争います。
桜井宗的は土屋氏の子孫ではないかと考えています。大東庄の南北は土屋氏が領していた地域で、土屋四郎左衛門が蓮華寺城に籠城した記録もあります。蓮華寺城が現在の蓮華寺の山であったのか、はたまた阿用城であったのかは知るすべもありませんが、桜井氏が土屋氏の子孫だとするなら阿用城が相応しいと思われます。そして隠岐氏流馬田氏が土屋氏と姻戚関係にあり、桜井尾張守為信(慶信)とは後に大東を領した馬田尾張守慶信(為信)の事でないかと考えています。桜井宗的の時代で土屋氏流桜井氏は断絶して馬田氏が代わって城主となったのではないのでしょうか?土屋氏は加多神社の神官として統治していました。諏訪部氏の配下となった時には三刀屋領内の一部も手に入れています。
『武家家伝 土屋氏』
さて桜井の地名は出雲にはありません。あるのは現在の江津市桜江で、鎌倉時代は荘園となった桜井庄です。ここに桜井領主(土屋氏)がいます。参考『桜江町誌下巻』では治承4年(1180)に川戸鏑腰城主土屋宗遠は頼朝挙兵に参加して、戦功により江尾と川戸300貫を受領して相模国土屋村より来住したとされます。
土屋遠江守宗信の弟江尾弾正宗晴の代に都治氏を謀略によって陥れた事で静粛にあい一時衰退しますが、後に領地を拡大していきます。
この桜江の土屋氏が出雲に入り後に桜井氏を称したと思われます。阿用城主桜井氏は京極氏の家臣とあるのでこの頃には名乗っていたものと考えます。