画紋(gamon) -763ページ目

家紋詰め合わせ

本日の画像は、2年前に作成していた既存家紋を抜粋した「家紋詰め合わせ」です。
中陰三巴・白菊の家紋である献花・葵胡蝶丸・銀杏枝鶴・五芒星・葵車・提灯・上下に稲菱です。
両脇にある画紋とのアルファベットは、メタリック仕上げで、各文字に3個ずつ宝石が埋め込んであります。
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今日も仕事をしていたら、三人が出社。。。聞いてないよ。。。
二人は、日曜日にしか会えない相手の仕事の調査。
一人は、明日朝早くから仕事が出来るようにと、青森市へ移動しました。
彼らは、私を愛しているのかも知れない(笑)と感じます。
ありがとう。

丸に陰傘

本日の画像は、梅雨あけをめでて「丸に陰傘」です。にゃー
[和傘の歴史]
東洋では、傘はまず、貴人に差しかける天蓋として古代中国で発明され、その後、飛鳥時代の552年に仏教の儀式用の道具として朝鮮半島(百済)を経由して日本に伝来され、「きぬがさ」(絹笠、衣笠)と呼ばれた。
その後、平安時代に製紙技術の進歩や竹細工の技術を取り込んで改良され、室町時代には和紙に油を塗布する事で防水性を持たせ、現在と同じ用途で広く使用されるようになった。
また、それと共に傘を専門に製作する傘張り職人が登場して、技術が進歩し、『七十一番職人歌合わせ』には傘張り職人の姿が描かれているほか、奈良の大乗院には唐傘座が組織された。
更に安土桃山時代に、呂宋助左衛門によって呂宋(フィリピン)からろくろを使用して開閉させる傘が輸入され、江戸時代に広く普及するようになった。元禄年間からは柄も短くなり、蛇の目傘がこの頃から僧侶や医者達に使用されるようになったほか、その広げた際の面積の大きさに着目し、雨天時に屋号をデザインした傘を客に貸与して、店の名前を宣伝して貰うといった事も行われたほか、歌舞伎の小道具としても使用されるようになった。また、その製作過程は分業化され、江戸時代には失業した武士が副職として傘を製作する事もあった。長野県下伊那郡喬木村における阿島傘などはその一例で、今日でも同村の特産品となっている。
しかしながら、明治時代以後の洋傘の普及により、和傘は急速に利用されなくなっていった。現在では雨傘としての利用はほとんどなく、観光地での貸し出しや、日よけ用として旅館や和菓子屋の店先、野点用などに、持ち歩くのでなく固定して利用される程度である。 現在では岐阜、京都、金沢、淀江、松山等に少数の和傘製造店が残っている。
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●happyhappy-sky様、お約束のプレゼント(案)です。
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上がり藤

本日の画像は、既存の上がり藤家紋を抜粋した「上がり藤List」です。にゃー上がり藤・開き上がり藤・軸付き上がり藤・七つ花上がり藤・上がり薔薇藤・上がり藤菱の合計七つを使いました。わんわん
藤紋の場合、花房の下がった形の「藤の丸」が本来の形でありましたが、本家・分家の区別を立てる為「上り藤」が作られたとされてます。しっぽフリフリ
藤は藤原氏の代表的な家紋と誤解されていますが、藤原氏を代表する家紋とはなっていません。ブタネコ公家の藤原氏をみると九条・二条家などを除けば、ほとんど藤を用いていず、地方に下って武士化した藤原氏支流が氏にちなんで藤紋を用いたのが実態です。宇宙人藤原氏から出た武家としては藤原秀郷を祖とする、佐藤・武藤・近藤・尾藤・首藤・後藤の諸氏、藤原利仁を祖とする斎藤・加藤・進藤などの諸氏は、名字に藤の字を用い、藤を家紋としています。晴れ
名字に藤が付く方は、藤家紋のご使用が宜しいようです。地下鉄

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本日の背景は、歌舞伎の隈取りをイメージ致しました。目
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