ども、今日は午前中の会議だけで午後はフリー、ってことで、郡山市から東へ約15kmの三春町(滝桜で有名ですね。
天気も良く、ドライブには最適の暖かさでした。
さて、たどり着いた先は・・・
伊達政宗の正室「愛姫(めごひめ)」の実家で、戦国時代に田村氏、江戸時代にはおもに秋田氏が治めていた三春城(舞鶴城)です。
ここは大志多山に城を築いた山城です。
途中、蒲生氏が統治していた時代に築かれた石垣跡が残っていました。
今は緑や花々がところどころ咲いており、このような石碑が立っていました。
しかし、ここ三春は50km離れているので影響はほとんどないと思いますが・・・
ここで、この三春城について書いてみます。
「三春」という地名はここに「梅」「桜」「桃」の花が一度に咲き、三つの春が来た、ということで三春という名がついた、とされます。
この地に城が築かれたのは1504年(永正3年)、守山(郡山市田村町)を統治してい三春田村氏3代目田村義顕がここに館を構えたのが始まりとされます。
当時のこの地方は西の会津に芦名氏がおり、守備の面でこの三春に城を構えた、といわれています。
その後は隆顕が後を継ぎ周辺の須賀川二階堂氏、会津芦名氏、二本松畠山氏などと争いを繰り返し、1574年(天正2年)安積郡(現郡山市)で戦死します。
跡を継いだ隆顕の子清顕は芦名氏との戦いの末、安積郡を手中に治めます。また外交面では娘愛姫を米沢の伊達輝宗の嫡男伊達政宗に嫁がせ、背後を固めます。なお、清顕の母は伊達稙宗の娘であり、これによって伊達・田村が強いきずなで結ばれることとなります。
しかし1586年(天正14年)、清顕が急死します。清顕には男子がなく、甥に跡を継がせ、宗顕として存続します。
時代は豊臣秀吉が日本を統一するべく軍をすすめ、ついに小田原城を包囲することとなり、奥羽の諸大名には参陣を命じます。宗顕は参陣しなかったため所領は没収されます。
田村氏は宗顕が愛姫に招かれ1644年白石で亡くなります。跡を継いだのは仙台伊達家当主伊達忠宗の三男の宗良で、岩沼に3万石を与えます。次代建顕が一関に所領替えとなり、幕末まで存続しました。
さて、三春に入ったのは会津などを与えられた蒲生家で、楽市楽座を推奨し、城に石垣を作らせます。
しかし、蒲生氏郷が亡くなると、上杉、また蒲生と領主がたびたび代わります。安定したのは1627年、加藤嘉明が会津に入り、三春には三男・明利が3万石で入ります。
次いで松下長綱が入り、この長綱の代に城下町を形成、町を流れる桜川を整備した、とされます。
1645年、松下家が改易されると常陸笠間から秋田俊季が5万石で入ります。
以後11代、映季の頃に明治維新を迎えるまで秋田家が統治しました。
次回は、この地で起こった「自由民権運動」&グルメを紹介します☆


