記憶の記録 26.六年春
タンポポの花が咲いていた。
小川はサラサラ流れていた。
ベビーカーを転がして、最近は散歩をよくするようになった。
みかげ君と喧嘩をしたのはちょっとしたことだ。
わたしが忙しく家事をしているのを、
何もせずにただ部屋のソファーに寛いでいたのに苛立った。
彼はいつだって役に立たない。
「何かしようか?」なんて優しく声はかけてくる。
そんなふうに聞いてくるなら、
テーブルの上を片付けたり、お風呂掃除するなり、気づいて行動してほしい。
でも彼は言わないと何も出来ない。でくのぼうだ。
そんな時は家を出て、公園に来て、お日様の光をいっぱい浴びる。
春風が吹いて、
まだしゃべれないであわあわ言ってる澄音とお話をする。
「ほら、あれがタンポポだよ。綺麗だねえ。
春になるといろいろなお花が咲いてくるからね。ママが教えてあげるね」
澄音はあわあわ言って、ニコニコ笑った。今はこの時間が癒しだ。
家に帰ると、みかげ君が掃除機をかけていた。洗濯機も回っていた。
そうやって罪滅ぼしをする。
だけど基本的なところは何も変わらない。
彼は必要なときに求めている行動ができない。
会社ではいつもパソコンのモニターに移るシステムばかりを相手にしているから、
人を相手にするのは苦手なのだろう。
いくら澄音がまだ喋れないからと言っても、無言で見ている。
澄音の体調が悪いとわたしに助けを求める。
ハイハイして頭をぶつけたときはスマホを弄って見ていなかった。
たくさん任せられない態度があり、逃げ出して人任せにすることがある。
この性格の問題は根深い。
「わたし、実家に帰るね」
そう言ってみた。
「あっそうなんだ。気をつけて」
あっけらかんとそう答えた。
もはや本当に帰ろう。わたしは心に決めた。
一通り荷造りをして、大きな荷物をまとめてみる。
みかげ君はポカンとしながらも、動画の画面を見ていて、わたしの態度に気づかない。
澄音を抱っこひもで抱えて、大きなトランクを持つ。
それだけ気づいて荷物を持とうとするみかげ君。
「いいよ。自分で持つ」
わたしは言い放つ。
そのまま素直に従う、出来の悪い彼の態度は甚だ苛立たしい。
「じゃあ、いつ帰ってくるの?」
少し嬉しそうな顔をしている。
澄音のおもりから逃れられて一人のびのびできると喜んでいるみたいだ。
「しばらく帰らないから」
「え?」
「いろいろ整理しないといけないから一度は帰ってくるけど」
「ちょ、ちょっと待って。何言ってるの?」
「わたしと澄音が居なくなってせいせいするでしょ」
「いやいや、そんなわけないよ」
「行くよ」
「いや、行かないで」
みかげ君は強い力でトランクの荷物を奪い、それからわたしの腕を掴んだ。
「どうしたの?」
「何があったとか、そういうのじゃない。でもみかげ君は嫌だなって思ってる。
本当は一人でいたいんでしょ?」
うろたえるみかげ。
図星なのか。
「そんなわけないでしょ。確かに今日はちょっと一人になりたいなって思ったよ。
仕事で失敗して、客に謝って、家で何もしたくなかった。
ごめん、謝る」
「そう。そういう話はしてよ。
いつも笑顔を振り撒いて、何でもないって言って、逃げた態度で話そうとしない。
本当にイラッとするの。そういう態度を変えてほしいの」
「ごめん。少し一人でぼおっとしてればムカムカした感情も消せると思って。
少し一人になりたかった」
「今日だけじゃない」
「そうだね。今日だけじゃない」
「わたしたちのことは?」
「大切に決まってるでしょ。大切にしたいと思ってる。今日は疲れていたんだ」
わたしは頷いた。わたしだって疲れて何もしたくない日もある。
大切なのは、今何に疲れて嫌になっているか、そういう感情を口にしてほしい。
「ちゃんと話してね」
わたしは言った。
みかげ君は頷いた。
今日は仲直りだ。
春の日の一日に乱されても、明日はまた穏やかな一日を送ろう。
わたしはみかげ君とそう願い合った。