『何気ない毎にちを貴方に伝う』1ノ12
昨夜、降り出した雨は今日も降り続いている。
僕は喫茶店の窓際でカフェラテに入れたシナモンを混ぜている。
雨の日の人は少ない。暑さ凌ぎの喫茶店にもならないから、街は昨夜から閑散としているようだ。
僕は昨日の夜の事を思い返している。
満月の消えた街から人々は姿を消した。
そして店員よりも客の方が少なくなった居酒屋で、僕は一人焼酎を飲んでいた。
思い出したかった事がある。だから僕は一人で酒を飲んでいた。
あれはきっと10年前の事だった。
僕がこの町を初めて訪れた日のことだ。
でも思い出すことはなく、僕はただ酒を飲んでいた。
居酒屋で一人きり、雨の降り出しと共に客も少なくなり、居心地の悪くなった僕は大学時代からの友人に電話を掛けた。
「確か、10年前、俺が一人旅したことあったよな」と、何気なく友人に聞いてみた。
「さあ、そうだっけ。そんな事あったっけ?」
聞く相手が悪かった。そいつは昔から自分の事にしか興味のない奴だ。僕が10年前、どうしていたかなんて覚えているはずがない。
無駄な電話だった。
だから僕は自分で思い出そうとする。
当時は今とは駅前もまるで違っていた。あらためていくつかの路地を歩いたが、当時の記憶が戻る場所には出くわさなかった。果たして僕は本当に昔この町へ来たことがあるのだろうか?と思うほど、あらためて来たこの町について思い出すことはない。
10年前のあの日、僕はある男に誘われて、居酒屋で夕食をごちそうになった。
「一人旅してるんだ?」と、男は僕に関心を持った。「俺も数年前にヨーロッパを旅した事があってね、そういう旅している人を見ると、なんかうずうずするね」
そうだ、そう、そんな話で、あの男は僕を居酒屋に連れて行ってくれた。そしてどこかのこじんまりした居酒屋で日本酒を飲み交わした。
「20歳にはなっているよね」「ええ、まあ学生ですけど」「まあ、一応、未成年に酒をおごって、何かあったらね」確かそんな話をして、居酒屋に入ったはずだ。
その後、その男と何の話をしたか、あまり覚えていない。確か男はこの町の出身で、年齢は5つくらい上で、痩せていて、色黒だった。黒いジャケットを着ていたような気がする。それがその男の印象だ。
でも男は途中からいなくなってしまった。1時間か、2時間か、あまり覚えていないけど、男はその後、10分待っても、20分待っても帰ってこなかった。
あの日、僕はその男に騙され、酒をおごった。怒りはあまりなかった。確か払った額が思ったより安くて、胸くそ悪い気分が一気に吹き飛んだためだ。
あの夜はよく晴れていた。星々が目立ち、大きな月が輝いていた。僕はかなり酒に酔っていた。
気がついたら、旅館の布団上に寝ていた。夜中ふと目が覚めて、自分の今居る場所がどこなのか、と一瞬と惑った。でも僕は飲みすぎて気持ち悪くて、そんな事どうでもよく眠ってしまった。
翌朝、旅館の主人に聞いた。僕は一人でここに戻ってきたのか?その事がわからなかった。主人は、ええ、一人で普通に戻っておいでになりましたよ、と答えた。あの日僕はホテルに泊ったものだと思っていた。その時もそう思った。旅館だったろうか?と不思議に感じた。
何だろう?この、奇妙な気分は?
そんな不思議な体験をしたのに、僕は忘れていた。酒に酔ったからだと思い込んでいたせいだろう。でも何かがすっきりしない。
昨夜僕は忘れてしまった思い出を取り戻そうとしていた。
でもそれはより夢の出来事であったかのように消えてしまっていた。僕が歩いた街の記憶はどこにもない。果たして本当に僕はこの町へ来たことがあるのか?と考え直させるくらい、町の構造を思い出せなかった。
今日も、何もない、退屈な時間が、喫茶店の隅っこで潰されてゆく。
どれだけ雨が降っても、雨は溜まることがなく、循環を繰り返す。
僕の日々は似たようにリピートされてゆく。
その事を変えるために、僕は今まであった暮らしを捨てて、ここへやってきた。
この町が好きだったから?
いや、違うよ。
僕はこの町に何かを探しに来た。
僕は少しだけわかった気がする。
僕にはこの町でやるべきことがあるという事を。
テラスの隅の天井からぽたりぽたりと落ち続ける水滴を眺めていた。
雨が続く。水滴は永久にそこでリズムを刻んでいるようだけど、いつか止まる瞬間が訪れるだろう。僕に繰り返される何かもいつか終わる。僕はその瞬間が訪れることを望んでいる。
でも本当は恐い。
わかるかな。本当に恐い。
その瞬間を終わらせる事を恐れているのに、僕はその瞬間の終わりを望んでいる。
君ならわかってくれるだろうか?こんな僕の気持ちが。
(つづく)