22. 涼の誕生
春先のまだ肌寒い朝だった。
それでも日の出の早まった時節(じせつ)だ。
田山さゆりは家の外に出た。予想通りの肌寒さだが、心地よい日差しのある朝だった。
彼女は軒先で背伸びをして、体をほぐした。そして散歩にでも出掛けようとした。
でも一人の女がそうさせてはくれなかった。その女は田山の家のコンクリートで出来た塀にもたれていた。
「どうかしました」と、田山は声を掛けた。
女は苦しそうな呼吸をし、顔中に汗をかいていた。女は腹に手をあてていた。そのお腹は膨れていた。
田山さゆりの目に、女はまだ10代にしか見えなかった。でもその腹の膨れ具合からして、彼女が妊娠していて今にも生まれそうである事を田山さゆりは理解した。
さゆりは47歳になっていたが、妊娠経験はなかった。しかし彼女は若い頃、看護婦をしていたため、出産にも立ち会ったこともあった。だからその女の子が妊娠して陣痛を起こしていることは経験から思い返された。
「いま、救急車呼ぶわね」と田山は言った。
女の子は首をぶるぶる横に振った。
「ごめんなさい。それは困るんです」
辺りを見渡しても、まだ人の歩いている時間ではなかった。おまけに細い路地のため、近所の人間以外はほとんど通らない道だ。田山は女がどうしてこんな所に来たのか分からなかったが、とにかく助けてあげなくてはならないという気持ちにだけはさせられた。
「わかったわ。とにかく家の中へ」
そして田山さゆりはその女の子の肩を抱いて、自宅に入った。女を畳の応接間に通し、その場に寝かせた。
何事かと寝ていた主人が起きてきて、その女の子の姿を見た。
さゆり:「彼女は妊娠しているの。今にも生まれそうなの」
主人 :「妊娠しているって、おまえ。どうするつもりだ」
さゆり:「ここで産むわ。彼女は医者に行きたくないって言ってるから」
主人:「おい」
さゆり:「大丈夫。昔、お産の仕方もしっかり勉強させられたの」
田山さゆりは本当言えばほとんどお産の仕方なんて覚えていなかった。実際に自分が赤子を取り上げた事もなかった。それでもなぜか、このときはその女の子を救いたい気持ちに駆(か)られていた。その気持ちで頭の中がいっぱいになっていた。
「大丈夫よ」
田山は女を元気付け、夫を指示しながら、過去の記憶を探り、女の体から出てこようとする子供を待った。何もわからないはずなのに、田山もその女の子も女の本能がそうさせたのか、子供を産む体勢をしっかり整えていった。
結果、無事に男の子が産まれた。
無事に産まれたはよかったが、産んだ母親となったその女の子は生まれた赤ん坊を見ると、泣き出し、涙が止まらなくなってしまっていた。生まれた赤ん坊も泣いたが、その母親はそれ以上に泣いていた。
女の子は一日中泣いてばかりだったので、田山は産まれた赤子の世話をしながら、その子が泣き止むのをしばらく待つこととした。
夜になっても女はしくしくと泣いていた。田山も疲れたので、夜中12時に就寝した。
赤子の泣く声で目覚めさせられると、そこにはすでに女の子の姿がなくなっていた。
代わりに広告の裏にマジックペンで書かれたメモが残されていた。
『本当にごめんなさい。ご迷惑をお掛けしているのに、もっとご迷惑を掛けなければなりません。わたしはその子を育てる事ができません。本当はわたしがその子をどうにかしないとならないのですが、ごめんなさい。どうする事もできません。どうかその子を施設に預けてください。よろしくお願いします。本当にごめんなさい』
震えている汚い文字でそう書かれていた。
田山さゆりは夫と相談して考えた。結果、しばらくその子を預かる事とした。母親である女の子が気を変えて戻ってくる事も考えられたからだ。
でも本当の真(しん)の部分には別の理由があった。田山夫妻は結婚して20年になるが、子供が一人もいなかった。いなかったというよりはできなかった。二人は愛し合っていたし、病院にもいったが子供を作る面でも問題はなかった。毎年旅行には子宝の神が祭られている神社をわざわざ選んで出掛けた。それでも二人が子供に恵まれる事はなかった。
夫はすでに60を迎えていて、その年には定年していた。さゆりもパート程度で働いていたが、時間は十分にもてあましていた。夫の退職金と年金、預貯金を合わせれば、もう一人増えても十分に食べていけるお金も残されていた。逆に定年を迎えて無趣味とんなった夫にとっては楽しみが出来た気がしていた。
最初は1週間、やがて1ヶ月、2ヶ月、そう思ううちに、1年が過ぎていた。
田山夫妻はその子を涼(りょう)と名づけて育てていた。
少しずつ涼が成長するにつれ、いろいろな不安が出てきた。すでに田山夫妻は涼の事をわが子のように可愛がっていたので、手放せない状態になっていた。
田山夫妻は互いの両親も亡くなっていたし、姉妹とも疎遠だったために訪ねて来る親戚もいなかった。夫においては兄弟や多くの親戚を戦争で亡くしていたために本当に親戚といえる親戚がいなかった。
しかも夫は寡黙(かもく)な性格であるために友人もほとんどいなかった。さゆりには友人こそいたが、家まで訪ねて来るような関係ではなかった。
さゆりは若い頃、看護婦をしていたので、昔の後輩が今も看護婦をしていたため、彼女らから子供用の薬や予防注射を手に入れることができた。後輩たちはなぜさゆりが子供用の者をそんなに欲しがるのか不思議に思っていたが、若い頃、主任として勤めていたさゆりに頭の上がらない後輩たちだったために、さゆりの言う適当な嘘を素直に聞いた。
涼はそのようにして育てられた。夫は定年後の生活を涼の教育に費やし、さゆりも病気にならないよう健康に気遣いながら涼を育てた。たまに持ち上がる問題はあったが、二人は知恵を絞り合い、涼が一歩も家から外に出ることなく育てる方法を徐々に見出した。
その事はずっとうまくいっていた。これから先もずっとずっとうまくいくと思っていた。
そして田山涼は13歳になった。あんな事件に巻き込まれるとは、田山夫妻は全く想像もしていなかった。
23話へ続く