1. ある男 | 小説と未来

1. ある男

 響(ひびき)は隠れ家でぼーっと過ごしていた。


 隠れ家は、台東区上野にある、マンションの一階の通路を裏口まで通り抜け、その出口から出て、袋小路になっている通路の脇にあるドアを開き、地下に下ってゆくとある。

 このマンションの所有者は、響の親玉である人物と関係する者が所有者となっている。


 親玉は、響の知る限りでは、響の育ての親を殺した女政治家だ。しかし、殺しの真実に繋がる根拠はない。育ての親を殺したという点は、響がまさの生前の話から知る限りの推測でしかない。

 育ての親であるまさが死んだ今となっては根拠がない。かといって響はその犯人探しに行動的な態度を取っておるわけなく、毎日を送っている。



 そんな響の元にも客が来る。

 昨日は一人の客がやってきた。


 響はいつものかと思い、何気なく対応したが、訪れた男はいつもの男ではなかった。

 響がいつもの男と思う人物とは、響に麻薬の受け取りを指示する男だ。その男は普通にスーツを着て、普通のサラリーマンのように現れる。そして一枚の紙切れと諸費用を渡し、響に取引場所を指示する。

 響はいつもその指示に従い、所定の場所へ行き、別の運び屋からぶつを受け取る。

 そしてぶつの変わりに男から受け取っていた報酬を、その運び屋に渡す。彼はぶつを自分の家に持ち帰る。するといつもの男が再び現れ、ぶつを確認し、今度は響の報酬を渡し、ぶつを受け取って去ってゆく。

 一ヶ月に一度くらい、そんな日がある。


 でも昨日は違っていた。麻薬の受け取りを指示する男ではなかった。

 その男は黒いスーツを着て、サングラスを掛けていた。

 響の知る限り、隠れ家を知る人物は、いつもの男とマンションの所有者、そして響の3人しかいないはずだった。でも黒いスーツの男はどこからともなく現れて、彼に尋ねてきた。


「人を殺せるか?」

(これは、まだ扉越しでの話だ。響はその男を部屋の中にはいれていない)


 響は人殺しをするつもりはなかったので、その依頼にノーと答えた。

俺は人殺しはしない。俺の仕事はものを運ぶだけだ。それに信用のない男の依頼を受けない。あんたがどうやってここに入ってきたかわからないが、これ以上俺に関わるな。組織にあんたの存在を知らせ、消してもらう事だってありえるんだ。あんたも死にたくなかったら、もうここには来ないことだな」

 響はドキドキしながら、慣れない言葉をまさに真似て、ずらりと並べてみた。


「殺してほしい相手の名も聞かずに断るのは気が早いんじゃないか?」

 スーツの男はそう答えた。響は黙っていた。

 男は話を続けた。

ある女政治家を殺して欲しい。準備は整っている。後は君次第なんだが」


 しばらく沈黙していた。響は何も答えずに黙っていた。

 やがて、男が去ってゆく気配がした。


 咄嗟(とっさ)に、響は家の扉を開いていた。それがイエスを意味する態度の全てだった。


 その男は響に一丁の拳銃を渡した。

 そしてあらためて依頼を告げると、自分が何者なのかを告げる事もなく去っていった。


 全ては作られた罠だろうと、響は感じていた。

 考えれば、考えるほど、おかしな出来事であるような気がしていた。でもそれが何なのか、はっきりとした答えを今の響に見出す事はできなかった。

 響はただどうしても、その女政治家を許す事ができなかった。育ての親であるまさを殺した女政治家への復讐心は彼の意識を諦めから強い決意に替えた。だから響は誰かが仕掛けたと感じられる甘い罠にかかることさえも認めた。


 女を殺せる。それだけで響はよかった。

 その後の生活も、何もかも、響にはどうでもよく思えた。


もともと何もない人生だ。存在さえ、不透明。仕事も表ざたにはできない。まっとうには生きられない。楽しみはくだらない事ばかりだ。だから、どうなるかはどうでもよかった。ただ、復讐を果たせる』


 響は心の中でそう呟いた。


 あとは黒服の男からの次の知らせを待つだけだった。

 興奮を抑える時間は続く。拳銃にタマを込める練習をして、気を紛らわせていた。


2話へ続く。