昭和の作詞家(79)なかにし礼ー中篇 | 昭和歌謡

昭和歌謡

懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎あれからニシンはどこへ行ったやら

 昭和40年代の後半に入っても、なかにし礼の快進撃は続く。

 「今日でお別れ」(昭和45年・宇井あきら作曲・菅原洋一歌)〽今日でお別れね もう逢えない 涙を見せずに いたいけれど 信じられないの そのひとこと あの甘い言葉を ささやいたあなたが 突然さようなら 言えるなんて

 「手紙」(同・川口真・由紀さおり)〽死んでもあなたと 暮らしていたいと 今日までつとめた この私だけど

 「雨がやんだら」(同・筒美京平・朝丘雪路)〽雨がやんだら お別れなのね 二人の思い出 水に流して

 「京のにわか雨」(47年・平尾昌晃・小柳ルミ子)〽あまだれがひとつぶ頬に 見上げればお寺の屋根や 細い道ぬらして にわか雨がふる

 「別れの朝」(46年・日本語詞・ペドロ&カプリシャス)〽別れの朝 ふたりは さめた紅茶のみほし 

 「グッド・バイ・マイ・ラブ」(49年・平尾昌晃・アン・ルイス)〽グッバイ・マイ・ラブ この街角で グッバイ・マイ・ラブ 歩いてゆきましょう

 いずれも別れの歌。「今日で」は日本レコード大賞受賞曲。「京の」だけは日本調で、京の家並みににわか雨が降ってくる情景が浮かんできて私の好きな歌だ。aった

 昭和50年になって、なかにしにとって生涯忘れられぬ「一曲」が生まれる。

 「石狩挽歌」(浜圭介・北原ミレイ)〽海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)のヤン衆がさわぐ 雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く あれからニシンは どこへ行ったやら 破れた網は 問い刺し網か 今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロ

 戦後復員してきたなかにしの兄はニシン漁に手を出す。三日間だけ網の権利を買い取るもので、三日間にニシンが獲れれば大金持ち、獲れなければ大きな借金が残るというバクチみたいなものだ。奇跡的に三日目にニシンの群れが来てバクチは当たったが、そのニシンを本州に運べば儲けはさらに何倍にもなると聞いた兄は船で新潟へ運ぼうとする。ところが船が大時化に会ってニシンは売り物にならなくなって借財だけが残る。そこから、なかにし一家の流転が始まる。

 「兄貴が鰊漁に手を出し、あの鰊漁の光景を子供の俺に見せてくれたからこそ、この歌は生まれた。この歌はわが家の悲しいさすらいのテーマソングとしてずうっと私の心に鳴りつづいていたものなのだ。それを私は満身の怒りをこめて吐きだした」

 その後ニシンは何故か獲れなくなり昭和32年に北海道のニシン漁は終わる。この歌はそのニシン漁と自らの少年時代にささげるなかにしの挽歌である。小樽の祝津岬にあるニシン御殿(旧青山別邸)になかにし自筆によるこの歌の歌碑が立っている。

 この「石狩挽歌」から三年後、もう一つの代表曲が生まれる。

 「時には娼婦のように」(53年・作詞作曲・黒沢年男)〽時には娼婦のように 淫らな女になりな 真赤な口紅つけて 黒い靴下はいて 大きくあしをひろげて 片眼をつぶってみせな 人差し指で手まねき 私を誘っておくれ バカバカしい人生より バカバカしい ひとときがうれしい

 性的なきわどい歌詞で眉をひそめるむきもあったが、性的な表現も表現の自由に含まれると考えるなかにしは動じなかった。悲惨な戦争体験をしたなかにしにとって、戦後の平和と自由は何よりも大切な守るべきものという信念を持っていたのだ。果たしてこの歌は大衆に支持されて大ヒットした。なかにしは「去勢されたような声で歌うニューミュージックへの挑戦状だった」とも語っている。

 バカバカしい人生だから、たまにはバカバカしいことでもやらないとやっていけない。私もそんな気持ちになることがあるし誰もがそうだろう。

それでいいじゃないかと開き直るところが、なかにしの真骨頂だ。                           (黒頭巾)