昭和の作詞家(10)藤田まさと | 昭和歌謡

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懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎亭主持つなら堅気をおもち

 藤田まさと(明治41年~昭和57年)は日本の歌謡曲の一ジャンルである股旅物の創始者であり大御所である。静岡県牧之原市の生まれ、大陸に渡って大連商業学校を卒業、内地に戻って明治大学に入学するが中退して日本ポリドールに入社。同社の部長をしながら作詞活動を続けた。

 「旅笠道中」(昭和10年・大村能章作曲・東海林太郎歌)〽夜が冷たい 心が寒い 渡り鳥かよ 俺等の旅は 風のまにまに 吹きさらし

 藤田のデビュー曲であり股旅物の記念すべき第一作。出だしは本来なら「夜が寒い、心が冷たい」だろうが、それをひっくり返したところがミソ。3番の「亭主持つなら堅気をおもち とかくやくざは 苦労の種よ」は広く知られる名文句になった。若き日の清水次郎長を描いた中川信夫監督、市川右太衛門主演の映画「東海の顔役」の主題歌として大ヒットした。最近知ったことだが、東海林は日本で最初の餃子の店を早稲田に開いたんだそうだ。 

 「妻恋道中」(12年・阿部武雄・上原敏)〽好いた女房に三行半を 投げて長脇差永の旅 怨むまいぞえ俺等のことは

 前作に続く股旅物として藤田が東海林のために書いたが、二人が大喧嘩してしまい上原が歌うことになったという。これも旅から旅へとやくざ渡世に生きる男の心情をうたったもの。

 「流転」(12年・同)〽男命を みすじの糸に かけて三七 二十一(さいのめ)くずれ 浮世かるたの 浮世かるたの 浮沈み

 やくざに身を落とした三味線弾きを主人公にした同名の松竹時代劇の主題歌。これも一種の股旅ソングといえる。二十一とはサイコロの目の一から六まで足すと二十一になることから「さいのめ」と読ます。戦後になって影のある男の役が多かった日活の赤木圭一郎がちょっと投げやりに歌って再ヒットした。2番は「どうせ一度は あの世とやらに 落ちて流れて 行く身じゃないか」だが、上原は35歳でニューギニア戦線で戦死、赤木も22歳の若さで事故死してしまった。赤木の歌は「霧笛が俺を呼んでいる」もそうだが、うまくはないが味がある。

 「大利根月夜」(14年・長津義司・田端義夫)〽あれを御覧と 指差す方に 利根の流れを ながれ月

 御存じバタやんの平手造酒。歌詞もメロディーもきまっていて、これぞ歌謡曲の世界だ。

 次は股旅物以外からー

 「明治一代女」(10年・大村能章・新橋喜代三)〽浮いた浮いたと浜町河岸に 浮かれ柳の はずかしや

 実際にあった芸者花井お梅の殺人事件をテーマにした川口松太郎の小説を映画化した際の主題歌。2番の「怨みますまいこの世の事は

仕掛け花火に似た命 もえて散る間に舞台が変わる まして女はなおさらに」あたりは極め付きの名文句だ。美空ひばりら多くの女性歌手に歌い継がれている名曲だ。

 「麦と兵隊」(13年・大村能章・東海林太郎)〽徐州徐州と 人馬は進む 徐州居よいか 住みよいか

 軍歌の代表曲のひとつだが、戦意高揚一辺倒ではなく、故国を遠くた離れた大陸を往く兵士の哀感がにじみ出ている。

 戦後のヒット曲としては「岸壁の母」(29年・平川浪竜・菊池章子のち二葉百合子)、「ある女の詩」(47年・井上かつお・美空ひばり)、「浪花節だよ人生は」(59年・四方章人・小野由紀子のち細川たかしら)などがあるが、1曲だけー

 「傷だらけの人生」(45年・吉田正・鶴田浩二)〽何から何まで 真っ暗闇よ すじの通らぬ ことばかり 右を向いても 左を見ても ばかと阿呆のからにあい どこに男の夢がある

 鶴田をイメージして書いたもので、古い気質の渡世人が欲に走る今の世の中を嘆いてみせる。冒頭のセリフ「古い奴だとお思いでしょうが」は流行語にもなった。義理人情の世界を描いてきた藤田本人の思いかもしれない。         (黒頭巾)