昭和の作詞家(7)西條八十ー戦前篇 | 昭和歌謡

昭和歌謡

懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎誰か故郷を想わざる

 西條八十(明治25年~昭和45年)は昭和の歌謡界を引っ張ってきた巨星である。作品は抒情歌、青春歌からお座敷唄、股旅物まで幅広く、しかもその時代の空気を先取りしていた。

 東京牛込の大地主の家に生まれ早稲田の文学部を卒業、象徴派の詩人として活動、一時は早稲田の仏文学の教授もしていた。

 「東京行進曲」(昭和4年・中山晋平作曲・佐藤千夜子歌)〽昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ

 当時の東京は関東大震災(大正12年)の痛手から立ち直り、復興目覚ましいものがあった。そうした東京の姿を当時の風俗や新語を巧みに取り入れて表現している。特に4番の「シネマ見ましょうか お茶のみましょうか いっそ小田急で 逃げましょか」のくだりが有名になって大いに小田急の宣伝になったという。歌は多くの人に愛され親しまれ、八十の名は一気にひろまった。

 この後「銀座の柳」(7年・中山晋平・四家文子)、「涙の渡り鳥」(同・佐々木俊一・小林千代子)とヒットが続き、そしてホームランが飛び出す。

 「東京音頭」(8年・中山晋平・小唄勝太郎)〽ハア 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 花の都の 真ん中で

 昭和7年、東京は隣接郡部を編入して人口五千万人を超える世界三大都市に躍進し、各町内では大東京の誕生を祝う催しが行われた。この時人々が歌い踊ったのがこの歌。やがて盆踊りの歌として全国に広まった。いまでもヤクルトスワローズの応援歌に使われている。

 「サーカスの唄」(8年・古賀政男・松平晃)〽旅のつばくろ 淋しかないか おれもさみしい サーカスぐらし

 ドイツからハ-ゲンベック・サーカスが来日した時の宣伝歌。旅から旅へのサーカス暮らしのわびしさを歌ってヒットした。

 「旅の夜風」(13年・万城目正・霧島昇、ミス・コロムビア)〽花も嵐も 踏み越えて 行くが男の 生きる道

 田中絹代、上原謙主演の松竹映画「愛染かつら」の主題歌。映画も歌も大ヒットした。老若男女が「花も嵐も踏み越えて」と歌っていた。

 「誰か故郷を想わざる」(15年・古賀政男・霧島昇)〽花摘む野辺に 日は落ちて みんなで肩を くみながら 唄をうたった 帰りみち 幼馴染の あの友この友 ああ 誰か故郷を 想わざる

 この歌を歌うと、誰しもが故郷で過ごした幼き日々を思い浮かべるだろう。戦地の兵士の間で愛唱され、それが内地にも及んだ。

 「蘇州夜曲」(15年・服部良一・渡辺はま子)〽君がみ胸に抱かれてきくは 夢の舟歌 恋の唄

 この歌と「シナの夜」(13年・竹岡信幸・渡辺はま子)は長谷川一夫、李香蘭主演の国策映画「支那の夜」の主題歌、挿入歌としてヒットした。

 「若鷲の歌」(18年・古関裕而・霧島昇)〽若い血潮の 予科練の 七つボタンは 桜に錨

 戦時中は作詞家も作曲家も軍歌や戦意高揚歌をが多くつくらされた。その多くは戦後消えていったが、この歌と「同期の桜」(大村能章作曲)は今もなお歌い継がれている。詞とメロディーの力だろう。                        (黒頭巾)