昭和歌謡の旅(56)東京ーその8 | 昭和歌謡

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懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

◎澁谷と池袋

 私は学生時代から今日までずっと東急沿線に住んでいるので、澁谷はいわばホームグラウンドだ。その澁谷はずいぶんと変わってしまった。昔は落ち着いた大人の街だったが、いつのころからか若者が増えて新宿とそう変わらない騒々しい街になってしまった。さらに近年は再開発で新しいビルが次々と建って、いろんな思い出の詰まった東急文化会館や東急プラザは今はない。

 自然と足も渋谷から遠のいてしまった。学生時代には井の頭線のガード下あたりの焼き鳥屋に足繁く通ったり、世帯を持ってからも休日には家族で買い物や食事に出かけたものだが、今はむしろ渋谷を避けて二子玉川や自由が丘に行くようになっている。

 その澁谷が歌謡曲に出てくるのは前にも書いたが昭和31年に三浦洸一が歌った「東京の人」(佐伯孝夫作詞・吉田正作曲)が最初だろう。1番が銀座、2番が日比谷、新宿、浅草で3番が〽都のすがた 店々は 変れどつきぬ恋の唄 月の澁谷よ 池袋…経済の成長に伴って上野、浅草といった従来の盛り場に代わって渋谷や池袋が台頭してきた時代を反映している。

 その後も渋谷の歌は少ない。三善英史の「円山・花街・母の街」(48年・神坂薫・浜圭介)。道玄坂を上がったあたりにある円山はもともと大山街道の宿場町だったが大正時代に花街として栄えたが今はラブホテル街になっている。〽母になれても 妻にはなれず…円山花街 母の涙がしみた 日陰町。三善は円山の芸者の子で、花街に生きた母の悲しみを歌っている。

 ロス・インディオス&シルビアの「別れても好きな人」(54年・佐々木勉作詞・作曲)〽別れた人に会った 別れた渋谷で会った 別れたときとおんなじ 雨の夜だった…二人はこの後傘もささずに原宿、赤坂、高輪、乃木坂、一ツ木通りと歩く。さぞびしょぬれになったことだろう。都会的なしゃれたムード歌謡で、大ヒットしたのはソロのシルビアの魅力が大きかったと思う。シルビア可愛くてセクシーだったが、どこか儚げなところがあり52歳の若さで早逝してしまった。 

 渋谷から青山通りを上がった右手の青山学院にはペギー葉山の「学生時代」(39年・平岡精二作詞・作曲)の歌碑がある。〽つたのからまるチャペルで 祈りを捧げた日 夢多かりしあの頃の 思い出をたどれば…ミッションスクールに通う多感な女子学生の歌、青山出身のペギー自身の思い出も詰まっている。

 高校まで埼玉県に住んでいた私にとって池袋は東京の玄関口で、大学時代には池袋近辺に住んでいた友人と何度か酒を飲んだことがある。青江三奈の「池袋の夜」(44年・吉川静夫・渡久地政信)を聴くと、そのころのことを思い出す。〽他人のままで別れたら よかったものを もう遅い…どうせ気まぐれ 東京の 夜の池袋。どことなく退廃的な歌で泥臭ささが残る池袋らしい。

 渋谷の青山学院に対し池袋は立教。大学構内には灰田勝彦の「鈴懸の径」(17年・佐伯孝夫・灰田晴彦)の歌碑がある。〽友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる 学舎の街…これも立教出身の灰田の思い出につながっている。           (黒頭巾)