昭和歌謡

昭和歌謡

懐かしい昭和の歌謡スターの歌を紹介します。

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◎恋人よ こごえる私のそばにいて

 五輪真弓は日本の女性シンガーソングライターの草分けだ。昭和26年、東京・中野生まれ。五輪という珍しい名前は本名で、父親が長崎県五島列島の久賀島の五輪村(現五島市蕨)の出身だという。ここには旧五輪教会堂という古い教会堂があって、いわゆる隠れキリシタンの遺産として世界遺産にも登録されている。父親もクリスチャンで漁の傍ら教会でオルガンを弾いていたという。五輪の才能は父親譲りなのかもしれない。

 都立杉並総合高校在学中から同級生とフォークデュオを結成するなど歌が好きで、卒業後本格的な音楽活動に入る。昭和47年に「少女」でシングルデビューした。

 「恋人よ」(昭和55年)〽枯葉散る夕暮れは 来る日の寒さをものがたり 雨に壊れたベンチには 愛をささやく歌もない 恋人よ そばにいて  こごえる私のそばにいてよ  そしてひとこと この別れ話が 冗談だよと笑ってほしい

 晩秋の夕暮れ時の公園、別れた恋人に語りかける女性、その寂寥感がひしひしと伝わってくる名曲だ。別れ話が冗談であってほしいと願う心も身につまされる。淡谷のり子、美空ひばりといった大御所がリサイタルなどでこの歌を好んで歌うのも分かる気がする。

 この歌の特徴はどことなく歌謡曲っぽさのあるところで、私のような世代にもアピールするのはそのためだろう。一方で五輪ファンの中にはこの歌を嫌う人がいるという。その点について五輪は「私は昭和中期の歌謡曲を聴いて育ち、日本の叙情的な良さの影響を受けています」と歌謡曲の影響を認めている。 

 歌詞の中に出てくる「無常の夢」という言葉も、戦前に児玉好雄が歌い戦後は佐川ミツオがリバイバルしてともにヒットした「無常の夢」(佐伯孝夫作詞・佐々木俊一作曲)を意識したのではないかと思う。そう思って聴くと、この2曲の世界にはどこか共通したものがあるような気がする。

 この歌は五輪のデビュー当時のプロデューサーで家族ぐるみの付き合いだった木田高介が交通事故で急死し、悲嘆にくれる妻の姿があまりに痛ましく、妻に代わってもう二度と会うことのない木田に捧げた歌だという。そう思うと長崎の離島の教会に響くオルガンの音が聞こえてくるような気もする。

 「ユーミン」こと松任谷由実は昭和29年、東京・八王子生まれ。立教女学院から多摩美大卒。中学生の頃から文化、芸能人のサロンになっていた六本木のイタリアンレストラン「キャンティ」に出入りしていたというから、恵まれた環境に育ったお嬢さんなのだろう。

 女性シンガーソングライターのエース的存在。昔、私の散歩コースにユーミンの家があったので、そのころからなんとなく身近に感じていた。私の知っている歌は初期の青春を懐かしむ2曲だ。

 「『いちご白書を』もう一度」(昭和50年・バンバン歌)〽いつか君といった 映画がまたくる 授業を抜け出して 二人で出かけた…雨に破れかけた 街角のポスターに 過ぎ去った昔が あざやかに よみがえる 君もみるだろうか 『いちご白書』を 二人だけのメモリー どこかでもう一度

 フォークグループ・バンバンを結成したものの四年間もヒットがなかったばんばひろふみが、ユーミンの曲に感動して「これで売れなければあきらめよう」とユーミンに曲づくりを懇願した。そのころ学生運動をテーマにした曲を作ろうと思っていたユーミンは早大闘争を経験したプロヂューサー前田仁の助言を得て作詞作曲した。

 『いちご白書』は43年にコロンビア大学で起きた学園紛争をテーマにしたアメリカ映画。日本では45年に公開され全くヒットしなかったが、これをあえてタイトルにしたことが曲に新鮮な印象を与えている。

 それにしてもユーミンはなぜ学生運動を歌にしたかったのか。多摩美のキャンパスは昔住んでいた家の近くにあったが学園紛争があったとは聞いたことがない。もっとも歌の2番によると、主人公は本格的に学生運動にのめりこんだわけではなく時々集会に参加する程度で、就職シーズンになると長髪を切って「もう若くはない」と弁解している。だからこの歌には学生運動につきものの挫折感のようなものは感じられず、ただ懐かしい青春の一ページだ。

 「あの日にかえりたい」(昭和50年)〽泣きながらちぎった写真を 手のひらにつなげてみるの…青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう あの頃のわたしに戻って あなたに会いたい 

 吉田拓郎、井上陽水、五輪真弓に比べるとユーミンの歌はどこか明るく、都会的な感じがする。         (黒頭巾)

◎夢の中へ行ってみたいと思いませんか

 井上陽水は吉田拓郎とともに1970年代のフォーク、ニューミュージック界を牽引してきた二大スターだ。二人の生い立ちは似ているところがある。二人の父親はともに日本統治下の京城(現ソウル)に住んでいたが、敗戦によって吉田家は鹿児島に、井上家は福岡に引き揚げてきた。ちなみに財津和夫の父親も朝鮮から敗戦後に福岡に引き揚げている。

 陽水は昭和23年、福岡県嘉穂郡幸袋町(現飯塚市幸袋)に生まれ、同県田川郡糸田町で育った。糸田小、糸田中、西田川高校を卒業、家業の歯科医を継ぐため歯科大を三度受験するが失敗して上京、音楽活動に入り46年に「井上陽水」としてデビューする。陽水と拓郎の違いは、同じ子供の頃の夏の思い出を歌った「少年時代」と「夏休み」を比較するとよく分かる。

 「少年時代」(平成2年)〽夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれに さまよう 青空に残された 私の心は夏模様…夏まつり 宵かがり 胸のたかなりに あわせて 八月は夢花火 私の心は夏模様

 藤子不二雄Aの漫画を原作とした映画「少年時代」(篠田監督正治監督)の主題歌。飲み仲間の藤子に依頼されて作り、陽水最大のヒット曲となった。「夏休み」が素朴で分かりやすい歌であるのに対し、こちらは心象風景を描いた幻想的な歌だ。

 陽水は自分の作詞手法について「日本語辞書をみながら面白いと思った言葉を抜き出して創作する」と語っている。だから「風あざみ」「夏模様」「宵かがり」「夢花火」といった日本語として存在しない言葉が使われている。しかし聴く人はなんとなく感覚的に理解して、少年時代を思い出していい気分になる。

 「夢の中へ」(昭和48年)〽探しものは何ですか? 見つけにくいものですか? カバンの中も つくえの中も 探したけれど 見つからないのに まだまだ探す気ですか それより僕と踊りませんか 夢の中へ  夢の中へ 行ってみたいと思いませんか 

 陽水を世に出した最初のヒット曲。それまで聴いたことのないような不思議なメロディーで、それこそ夢の中へいざなってくれるような天才的な調べだ。

 歌詞も「探しもの」という変わったテーマで、いろいろ解釈があるようだが、歯科医になるのをやめて好きな音楽の道に飛び込んだ自分の人生を振り返って「一つのことに固執するより、別の道を歩んでみたら新しい世界が開けるんじゃないの」というような意味なんじゃないかと私は思う。

 「心もよう」(昭和48年)〽さみしさのつれずれに 手紙をしたためています あなたに 黒いインクがきれいでしょう 青いびんせんが恋しいでしょう…さみしさだけを手紙につめて ふるさとにすむあなたに送る あなたにとって見飽きた文字が 季節の中で埋もれてしまう

 この曲も入ったアルバム「氷の世界」は日本のレコード史上初めてLP販売100万枚を突破した。49年の高額納税者番付を見ると歌手の部で拓郎が5位、陽水が7位に入っている。ちなみにこの年の1~4位は水前寺清子、美空ひばり、森進一、五木ひろしだ。翌50年からは陽水が三年連続1位になっている。

 故郷に住んでいる恋人に手紙を書いているが、〽遠くで暮らす事が 二人に良くないのはわかっていました…とあるように離れていると心もいつしか離れていってしまう。その寂しさともどかしさを歌っている。陽水の詞にしては造語もなくてわかりやすい。「さみしさだけを」以下のギターをたたみかけるように歌うところが、すごくいい。

 「リバーサイドホテル」(57年)〽誰も知らない夜明けが明けた時 町の角からステキなバスが出る 若い二人は夢中になれるから 狭いシートに隠れて旅に出る…ホテルはリバーサイド 川沿いリバーサイド 食事もリバーサイド Oh リバーサイド

 最初に聴いた時から気に入って、カラオケで歌ってみたらおじさんにもそこそこ歌えた。歌詞は若い二人がバスに乗ってホテルに入るという、ただそれだけだが、なんだか幻想的で不思議な世界に入っていくような感覚になる。

 この二人は心中をしてリバーは三途の川、つまり死後の世界を歌っているという解釈もあるようで、あるいはそうかもしれない。造語はないが「夜明けが明けた時」「金属のメタル」「川沿いリバーサイド」など同じ意味の言葉を重ねている。これは意図的に使ったのだろう。

 陽水の歌はどれも独創的で陽水にしか書けない曲だ。そこが天才といわれる由縁だろう。      (黒頭巾)

 

 

 

◎それでも待ってる夏休み

 吉田拓郎は日本のシンガーソングライターの草分けであり、それまでマイナーなイメージだったフォークソングをメジャーな存在に引き上げた立役者である。また言葉を自由にメロディーにのせる「字余り、字足らず」の歌の創始者でもある。それまで日本の歌作りは音符一つに一つの字をのせるのが基本ルールだったが拓郎はそれを変えた。これは日本歌謡史に残る大革命で、今は「字余り」ソングはごく当たり前のことになっている。

 「夏休み」(昭和46年)〽麦わら帽子は もう消えた たんぼの蛙はもう消えた それでも待ってる 夏休み

 拓郎は昭和21年生まれ。鹿児島県谷山町(現鹿児島市)の谷山小学校に入学、二年生まで在学しその後広島県に移り県立皆実高校から広島商科大学(現広島修道大学に進んだ。この歌は谷山小学校での楽しかった夏休みを懐かしんで作った曲で、麦わら帽子、蛙のほか絵日記、花火、とんぼ、西瓜、ひまわり、夕立、せみの声など夏休みを思い出させる言葉が次々と出てくる。2番の「きれいな姉さん先生」も実際のモデルがいるようだ。

 子供の頃は夏休みが来るのが待ち遠しくでならなかった。そして夏休みが残り少なくなるとたまらなくさみしかった。この歌を拓郎のベスト1に挙げる人が多いのは、そうした少年時代への震えるような懐かしさを誰もが感じるからだろう。

 「結婚しようよ」(47年)〽僕の髪が肩までのびて 君と同じになったら 約束どおり 町の教会で 結婚しようよ

 反戦などプロテクトソングが多かったフォークのイメージを一変させた画期的な曲で、この大ヒットで拓郎は一気にメジャーに躍り出た。この年に拓郎は軽井沢の教会で結婚式をあげた。そうした私生活をさりげなく素直に表現した曲は若者に圧倒的な支持を受けた。翌年には南こうせつの「神田川」が生まれフォークは全盛期を迎えることになる。 

 「我が良き友よ」(50年・かまやつひろし歌)〽下駄を鳴らして奴が来る 腰に手ぬぐいぶらさげて 学生服にしみこんだ 男の臭いがやってくる アー 夢よ良き友よ おまえ今頃どの空の下で 俺とおんなじあの星みつめて 何想う

 拓郎の大学時代の同級生がモデル。こうした蛮から風の大学生は少なくなっているが、学生時代を懐かしむ気持ちは今も変わらない。

 初期の拓郎に多くの詞を提供したのが岡本おさみ(昭和17年~平成27年)だ。岡本は鳥取県米子市生まれ、県立米子東高校、日大卒 。放送作家から作詞家に転じた。旅好きの岡本には旅の歌が多い。

 「旅の宿」(47年)〽浴衣のきみは尾花(すすき)の簪 熱燗徳利の首つまんで もういっぱいいかがなんて みょうに色っぽいね

 岡本が新婚旅行で青森県の蔦温泉に泊まった折のことを詞にした。部屋食の旅館は今では少なくなっているが、当時は普通だった。若い男女が浴衣を着て差し向かいで食事して酒を飲む。その初々しさと少し照れくさいような感じがよくでている。

 「襟裳岬」(49年・森進一歌)〽北の街ではもう 悲しみを暖炉で 燃やしはじめているらしい 理由(わけ)のわからないことで 悩んでいるうち 老いぼれてしまうから 黙りとおした歳月を ひろい集めて暖めあおう 襟裳の春は 何もない春です

 「森さんのような人に書いてみたい」と言っていた拓郎と「演歌の枠にとらわれたくない」と思っていた森の意向が合致してできた曲だが、周囲は「森にフォークは似合わない」と大反対だった。ところがフタを開けてみたら大ヒット。当時、五木ひろしに後れをとっていた森の喜びようは尋常ではなかったという。

 私もこの歌を最初に聴かされたら、ヒットしないと思うだろう。なぜヒットしたのか。理由はいろいろあるだろうが、私は最後の「襟裳の春は何もない春です」が効いているのだと思う。実際に襟裳は岬と海、波と風だけで他には「何もない」。地元の人たちはこの歌詞に抗議したが、大ヒットしたので感謝状を森に贈ったという。

 私は歌謡曲人間なのでフォークにはあまり関心はないが、拓郎の歌には共感を覚える何かがある。それはおそらく拓郎は一歳下、岡本は三歳上で同じ年代であることが大きいだろう。                                 (黒頭巾)

 

 

◎貴方はもう忘れたかしら

 喜多條忠は昭和22年、大阪生まれ。府立春日丘高校から早稲田大学に進むが学費滞納で退学となる。退学後、文化放送の放送作家になり、キャンペーンで訪れた南こうせつと知り合う。一歳下の南とは妙にうまがあったという。

 その南が昭和48年の初夏に突然訪ねてきて「何か一曲書いてください。明日がレコーディングなんです」と依頼される。南と別れて帰宅途中に神田川の橋を渡った時、学生時代に神田川の見える三畳一間の部屋で同じ早稲田の女学生と同棲していた甘酸っぱい思い出がよみがえってきた、浮かんできた詞をチラシの裏に書いて電話で南に読み上げた。南はそれをメモするはなからメロディーが浮かんできたという。

 これが「神田川」。当初はアルバムの中の一曲だったが、放送されるとこの曲にリクエストが殺到。そこで発売元の日本クラウンではシングルカットするかどうか検討するが歌謡曲、演歌中心だった同社内では慎重論も多かった。そこで登場するのが馬淵玄三。五木寛之の小説「艶歌」の主人公「艶歌の竜」のモデルとなった伝説のプロデューサーだ。「これは歴史に残る名曲になる。これを出さなければ日本クラウンは一生の恥をかくことになるぞ」。この一言でシングル発売となり、「神田川」は日本のフォークの代表作となった。

 「神田川」(昭和48年・南こうせつ作曲・南こうせつとかぐや姫歌)〽貴方は もう忘れたかしら 赤いてぬぐい マフラーにして 二人で行った 横丁の風呂屋 一緒に出ようねって 言ったのに いつも私が待たされた…若かったあの頃 何も恐くなかった ただ貴方のやさしさが 恐かった

 今は還らぬ若き日の同棲時代を女性の側から回想している。「ただ貴方のやさしさが恐かった」は男の詞とは思えないほど女性の心理をよく表している。最初にこの曲を聴いた時、疑問に思ったことがる。女性は髪を洗うのに時間がかかるので風呂屋ではたいてい男が待たされるのに、なぜ逆なのか。調べたら喜多條がいつも風呂屋の池の鯉に餌をやって遊んでいて出るのが遅れたのだという。それで納得。

 当時、喜多條が住んでいた下宿は高田馬場駅に近い神田川にかかる戸田平橋あたり、同棲期間はほぼ一年間だったという。この歌が大ヒットしたころは上村一夫の劇画「同棲時代」が人気を集め、ドラマ、映画化され大信田礼子の主題歌もヒットし「同棲時代」は流行語にもなっていた。

 「赤ちょうちん」〽あのころふたりのアパートは 裸電球まぶしくて 貨物列車が通ると揺れた…

 「妹」〽妹よ ふすま一枚 隔てて今 小さな寝息をたてている 妹よ…

 この二曲は翌49年に同じ作者、歌手でつくられた。「神田川」と合わせて「四畳半三部作」と呼ばれ、いずれも狭い下宿でささやかな生活を送っていた青春時代を懐かしむ曲だ。

 神田川は東京の西から東へと流れ、やがて隅田川にそそぐ。その合流地点の隅田川に架かるのが両国橋。武蔵と下総の国をつなぐことからその名がある。

 「両国橋」(50年・吉田拓郎・松平純子)〽新しい恋始めるならば 両国橋はいけないわ あそこは二人の思い出を 川に流した場所だから

 これも別れた男とのことを思い出している女の歌。この男女は「神田川」より年上だ。松平は東映が引退した藤純子の跡を継ぐ女優として華々しくデビューさせたが、顔立ちが整い過ぎていることなどから人気が出ず早くに引退した。今は由紀さおりがこの歌をカバーしている。

 「メランコリー」(51年・吉田拓郎・梓みちよ)〽…秋だというのに 恋も出来ない メランコリー メランコリー それでも 乃木坂あたりでは 私は いい女なんだってね 腕から 時計を はずすように 男と さよなら 出来るんだって 淋しい 淋しいもんだね

 これまで紹介した歌とはがらっと変わった都会のプレイガール調の歌で梓の雰囲気ににぴったりだ。「それでも乃木坂あtりでは…」あたりがとても洒落た感じになっている。フォークしか書けなかった喜多條はこの曲のヒットで作詞家としてやっていく自信がついたという。

 昭和52年に入って喜多條はキャンディーズに3曲続けてヒット曲を提供する。「やさしい悪魔」(吉田拓郎)、「暑中お見舞い申し上げます」(佐瀬寿一)、「アン・ドゥ・トロウ」(吉田)。その後は苦手の歌謡曲にも挑戦、平成29年には伍代夏子の「肱川あらし」(船村徹)で日本作詞大賞を受賞している。                                                   (黒頭巾)

 

 

 

 

◎あいつ昭和のたずねびと

 杉紀彦(昭和14年~平成30年)は東京生まれ、石川県羽咋郡志雄町(現宝達志水町)で育ち県立羽咋高校から千葉大理学部を卒業した。作詞活動の一方でラジオ番組や舞台の構成を手掛け、パーソナリティーを務めたラジオ日本の「杉紀彦のラジオ村」は25年間、4000回も続いた長寿番組となった。

 「なみだの桟橋」(昭和52年・市川昭介作曲・森昌子歌)〽どこへ行くとも 言わないで 夜明けあの人 舟の上 雨のデッキに眼をこらしても 溢れる泪で何も見えない…行かないで 行かないで 行かないで 

 昭和47年に「せんせい」でデビューして以来、清純派のアイドル歌手として通ってきた森が大人の歌手へとイメージチェンジしたのがこの曲。去っていく男を桟橋で見送る女の切ない心情を歌っている。「行かないで」を三回繰り返すところが聞かせどころ。この後、森は「哀しみ本線日本海」、「越冬つばめ」「立待岬」と女の哀しみを歌った曲を次々とヒットさせていく。

 「昭和たずねびと」(53年・三木たかし・石原裕次郎)〽男と女の つきあいは 燃えたら終わりが 直ぐに来る ひと晩かぎりで 灰になり 風に消えるも いいだろう…あゝ あいつ昭和のたずねびと 

 昭和が平成に変わるころは昭和を懐かしむ歌が多くつくられたが、これは昭和につくられた歌だから昭和回顧の歌ではない。しかし、いま聴くと昭和の良き時代をしみじみと懐かしんでいる歌に聞える。昭和とともに世を去った裕次郎が歌っているからなおさらだ。

 ところでこの歌のタイトルは「昭和訪ね人」なのか、それとも「昭和尋ね人」なのか。「訪ね人」だと歌詞にそぐわないような気がするし、「訪ね人」という言葉は一般には使われない。そうなると「尋ね人」になるが、その場合、自分が誰かを探しているのか、それとも自分が探されているのか分からない。私はそのあたりの詮索はやめて、昭和を生きる旅人といった感じで聴いている。

 裕次郎が少年時代を過ごした小樽をしのぶ「おれの小樽」(58年・弦哲也)も杉の作詞だ。

 「アマン」(57年・森田公一・菅原洋一、シルヴィア)〽もう二度とアマン 別れるのはいやよ そう言って僕を抱きすくめる 窓の外アマン

 杉は温かい人柄で多くの歌手からも慕われた。亡くなった翌年には小林幸子、鳥羽一郎らが発起人になって「しのぶ会」が開かれた。

 たきのえいじは昭和24年生まれで愛媛県大洲市の出身。49年に作詞、作曲家デビューし、数多くの歌手に作品を提供した。

 「函館本線」(56年・駒田良昭・山川豊)〽凍りついた線路は今日も 北に向かって 伸びてゆく 窓のむこうは 石狩平野 行く手をさえぎる 雪ばかり さよなら あなた 北へ 北へ 北へ帰ります…ひとり ひとり 身を引く 函館本線 

 山川が日本レコード大賞新人賞を受賞したデビュー曲。男と別れてひとり函館本線に乗って北の郷里に帰る女の寂しさ、哀しさを歌う。「北へ」と「ひとり」を繰り返すところが聞かせどころだ。

 函館本線は函館から小樽、札幌を経て旭川まで行く北海道の主要路線。「窓のむこうは石狩平野」とあるので、この女性は札幌より北へ行くのだろう。あるいは旭川で乗り換えてさらに先まで行くのだろうか。そしてそこではどんな人生が待っているのだろうか。

 このほかのヒット曲には小林幸子の「とまり木」(56年・作曲も)、マルシアの「ふりむけばヨコハマ」(64年・猪俣公章)など。平成に入ってからは「伍代夏子の最大のヒット曲「忍ぶ雨」(2年・市川昭介)、坂本冬美の「紀ノ川」(20年・弦哲也)がある。 

 ご本人は「あまり売れなかったが好きな曲」として城之内早苗の「雪ふりやまず」(2年・四方章人)、小林旭の「酒挽歌」(14年・浜圭介)を挙げている。

 たきのは今、歌手のかとうれい子と組んで病気や障害でベッド生活を送っている人の家を訪ねる「歌の宅配便」の活動を続けていて、訪問した家庭は100軒を超えている。                                                  (黒頭巾)