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嘉納治五郎が目指した柔道と違う現代柔道

下記は一部抜粋です。
要は現代柔道は発展途上であり、しかも日本が戦争に負けた時点で、体育が西洋のスポーツとなり、スポーツは元々は娯楽に重点がおかれた物で柔道も武道から離れた。もう一つの所謂青少年の精神的な効用に意味をおいて、柔道をスポーツ化し、GHQに対して早く復活の許可を得たかったのが事実でしょう。本来の「体育法」、「勝負法」、「修心法」の内の勝負法が欠落していて。
嘉納治五郎は、当身として空手の一部技術を、主体の柔術技は植芝盛平の合気道、まだまだ大東流の技がハッキリ見えている時の合気道を取り入れて柔道の完成を試みて、富木健二、望月稔などを植芝の元に行かせて研究したが、道半ばで柔道界はその前の時点の技に固執して、嘉納の理想の形には発展せずに益々スポーツ化したと考えるべきでしょう。
体育としては世界に発展し、一部修心方としては成功したが、理想的な勝負法は欠落したと思われる。



4)こ こ に 示 さ れ て い る よ う に 、 「勝 負 法 」 と は 、 相 手 を殺傷捕捉 して勝 ちを得 るための練 習法の ことで ある。そして、「柔術ノ元来ノ目的ハ勝負ノ法ヲ練 習ス ル コ ト」
5)であ り、「昔 は もっぱ ら武術 として 柔術 を稽 古 した」
6)と嘉納が述べ ているよ うに、「勝 負 法」 とは柔術か ら受 け継がれた 「武術 として」 の 練習法 を意味 して いる
7)。確 認 しておけば、 ここで いう 「勝負」とはルールによって安全が図られた場 における 「勝ち負け」を意味していない
8)。ルール 無 限定 の場 で生 じる暴力 に対応 してそれを制御 する 術 が 「武術」 であ り、「勝負法」 とはその ような武術的特性 に価値 を置 くものである。本 論では以下 に おいて、この武術的特性を 「武術性」と表記する。 この ように嘉 納は、柔術 が有 した 「武術性」 を柔 道における教育的価値の一つ として明確 に位置づけ、その継承を図ったのであるが、この 「武術性」 について、特 に戦後の嘉納/柔 道 に関す る研究 では ほ とん ど検 討 され て来 なかった
9)。数少 ない研究 の 中 で寒 川 は、「教 育上 ノ価 値」講 演で示 された 「体 育法」、「勝負法」、「修心法」の各々を柔術との断絶 性 と連続性 の視点か ら検討 し、 それ らの中で柔術 と の連続性を最も際立たせているのは 「勝負法」であ ると指摘している
10)。一方で、「体育法」について は柔術との 「質的断絶」、「修心法」については 「連 続と断絶の両面」があると指摘しており、これらの指摘 は、本論 を展開するうえで大いに参考となる。 しか しなが ら当研 究では、「嘉納 のす ぐれた独創性 」
11)に着 目す る として、柔術 との質的断絶が強い 「体 育 法 」 の 検 討 に 重 点 が 置 か れ 、「勝 負 法 」 に つ い て は 、 嘉納が柔術 との連続性 を保持 しようと したのは何故 か、その意 図に関 しては言 及 されていない。また、「教 育上 ノ価値」講演が行 われ た比較的早い時点(明 治 22・1889年)に 対 す る一研 究であ るため、 「教育上 ノ価値」(体 育法、勝負法、修心法)の 構造的な関 係について、その後の様相 を知ることができない。
講道館 は武術 として見 た る柔道 に封 しては(中略)、 先 ず権 威 ある研 究機 關 を作 って まず我が 國固有の武術を研究し、又廣く海外の武術も及ぶ限り調 査して、最も進んだ武術を作り上げ、それを廣く我 が國民 に教 ふる ことは勿論、諸外 國の人に も教 へる積りである。」(下線 ・筆者)
12)そ して、嘉納 は実際、唐 手や大東流合気 柔術 、棒術 な どの研 究に乗 り出すのであるが、すでに当時で は、講道館への直接の入門者数は累計で4万 人を超 えてお り
13)、また海外へ も着実に普及 していた。そ の よ う な 隆 盛 を み て い た に も か か わ ら ず 、さ ら に 「武術の研究機関」
14)を作って 「我が國固有の武術」を研 究す る とい う意 図は どこにあったの であろ うか。

この問題 にアプローチするのが本 論の 目的である。
もちろん 「武術性」を重視した理由を単純に考え
れば、「政治家 な どは勿論、他 の人 々 も、随分暴 漢その爲 に襲はれる事がある。夫れに世には随分人違 ひ で、危害を加へ られる事がある。其時柔道 を知て 居れば、どの位心強いかしれない。」

15)というように、 日常生活に役 立つ護身術 を求めたのだ、 とい う ことになる。だが筆者は、その ような単純な理由だけでなく
16)、文化的な背景・情況としてもっと深い
理由があった と考えてい る。特に筆者が注 目す るの は、先の引用 文で いえ ば、「我 が國 固有 の武術 を研究」する ことで 「我が國民 に教ふ ることは勿論、諸 外國の人にも教へる積 りである」(下 線 ・筆者)というくだりである。つまり、日本で育まれた 「武術性 」 を再検討す ることが、柔道の さらなる海外普及 のため には不可欠であ ると嘉納が認識 していた点であ る。なぜ海外普及のため には不可欠 なのか、それ は 「武術性」 こそが、世界中 に流布 してい る欧米ス ポー ツとの差異 を明確 にす るものであ ると確信 して いたか らで はないか。
また、嘉納が 「海外」に視点を置く理由には、す でに明治期から柔術が柔道に先行して海外(主 に欧「第一類」 はすべ てが当身技 で 構成 されてお り、 そこでの当身技 には唐手 の技術 に類似 した ものが含 まれている。嘉納 はその形 の効 用に つ い て 、 「齪 取 の 稽 古 を 幾 ら 遣 っ て も 、 當 身 は 上 手にならぬ。(中 略)そ れでは、武術としての償値は、十分 に認 め られな くなる。依 て不 断に攻 防式(=精力善用 国民体育;筆 者注)の 形 を練 習 して、 さうい け っか ん鉄 陥を救 ふや うに心掛 けるが よい」
22)と述べ てい る。
さらに嘉納の関心を高めたと思われるのは、昭和 5・1930年 の、大東 流合気 柔術
23)へ の接近 であ る。