現代の武道の入門や師弟とは | NeoMackey_ITpro&古武道のブログ

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現代の武道の入門や師弟とは

武道に入門するのは昔はかなりの覚悟とか血判を押したりしたものです。
ちなみに私槇原も若いころに、柔道一直線、俺は男だ(剣道は関係有るが武道とはいいがたいかも?)、その後空手バカ一代、ブルースリーなどと格闘技が世の中で活発になる時に、青春と言える時代を送っています。
 私が思う師弟関係は人として互いに尊敬をし、それに値しない時は師とは思わなくても良いし、今の世の中師を選んでは入る事の出来る事もあまりありません、かなり偶然の人の出会いです。
 高校時代も友人に柔道部、空手部等も沢山居り、また私も友人に誘われるまま付き合いで町の様々な道場にも一応入門してます。一応(^^;というのはどこも軽い感じの入門で、空手は町道場にあたる所に級を正式に受ける前でやめているのですが半年から1年は通いました。納得いかなかったのは空手で寸止めという割に先輩格の先輩面するタイプの人たちは技であててきたりし、乱取りになるとそれも若気の至りですが、突き蹴りでやられっぱなしでは当然駄目なので、かなりやり返すと審判役が直ぐにこちらばかり止めに来るという経験をしました。まぁ、型が成ってないといわゆるガチンコの喧嘩的になるのですが、その時に有段者と言っても手数と動きが速いとこちらの方が強いのでは?という疑問と、他を見ると体の大きな者がほとんど勝つ、という感覚です。小が大を制するは現実世界では有り得ないのではと思ってました。
 そして様々調べている内に合気道が神秘的に強いのではという想像にかられる様になります。ちなみに空手道場もあまり多く無く、合気道になるとますます近所には無いという状況でした。やっとみつけた合気道の道場は歩くと2~3時間かかる所にあり、これもしばらく通いました、役1年程です。ここではそれなりの技を覚えて、受取交代の型稽古ですからこちらも技をかける事が可能でした。ただし、手首を決める技はやはり先輩諸氏が圧倒的に強く新人はいつもやられ役になる感じでした。そして受け身は全く指導してもらえず投げられながら覚える物の様な説明でした。稽古前に何度か人より早く行き、個人で稽古していても誰にも指導も間違いを正してもらう事無く、学校で習った柔道受け身を続けていたのです。
 そして審査の日に近づいた時に、本部とやらから高段の人が来られて手取の技をされた時に私がしっかりと先に相手の腕を捕まえた時に、もう一度取り直しを指示されて、その時にとり直しすると逆に手のひらを返して持たれて、当時は技を知らなかったので途中から相手は両手を使いこちらの片手を返して抑えるという事をしました。その後も私が速くしっかりと掴もうとすると、そんな敵意の有る様な稽古では合気道が出来ないといわれました。そして同じ時期に他の古参の先輩と立会で同様の技をした時には、手を取ろうとしたら脚で蹴りを先に入れられて崩れている状態で、何かの技をかけられました。そして習った様に蹴りを先に入れようとしたら、自分は蹴りをいれたのにこちらには先輩を蹴るな!という意味不明の指導をされました。この彼らの対応から、先にがっしりと持たれたら彼らは技を出来ない事と、何かしらあからさまな蹴りや当身を入れないと技が出来ない、しかもその蹴りや突きは空手道場の白帯より稚拙なやり方でした。この事も有り合気道という物にいだいていた憧れや、理想の武道という気持ちは完全に萎えました。
 その後、骨法やシュートボクシング、総合格闘技などが世の中ではやりだし、催しを見に行ったり様々に武道や格闘技を見た時代です。その時に得た結果は、基本的にはでかい者が勝つ、若くて運動神経特に反射神経動体視力が優れ、それぞれの競技ルールに有利な体格、例えば腕が長い、脚が長い、等々で絶対強いなどという子供じみた空想はその時に完全になくなっていました。同時にプロ興行を楽しむ大人の頭も出来上がっていました。
 その時に感じたのは相手が何をするか予測できなければ有利に立てる、身体能力の高い者には同じルールで戦わない事、場合により身近にある物を武器として使用すべきだ、という結論でした。
 いわゆる武道オタクという程では無かったので、そのあたりの事を頭に入れて、万が一の護身に役立てばという程度しか武道には興味を持ってませんでした。青春時代を終え社会人にもなりそれなりの経済的な事も可能な頃には様々レジャースポーツが趣味でもあり仕事のストレス発散もそれで充分で男女共に楽しめる事を主に選んでいたと思います。流行ったのはテニス、スキーが主でその他スキューバダイビング、諸々世の中の景気良さもあり海外旅行にもよく出かけるようになり。其のせいでまた武道や護身に興味も出ており昔の武道熱も若干よみがえったのです。
 当時はカルチャーでの習い事が大流行りでした。空手、合気道にはすでに見切りをつけており、それ以外に実際に使える護身術となる様な事で、社会人になり運動不足を補う程度の物をさがしていました。そこに耳にしたことの有る大東流という流派名で合気道を朝日カルチャーセンターで開講しているのを知り、入会して稽古を始めました。カルチャーは道場の様に入門という程入るハードルも高く無く、そもそもその指導者を見てでは無く、内容に興味を持って入ったのです。当然、血判も押さなくても良いし(^^)、そこでは稽古生は元ボクサー、柔道を今もしているとか、少林寺拳法をやっているとか、何かしらの武道経験者も多く、他武道の経験者の多くは勝ち負けを信条としているので稽古でも負けたく無いという意思を表に出す人が多かった様です。
 私はすでに社会人でしたので彼らに対しては先輩としてたてておいて、知っている知識をもっぱら教えてもらう作戦をしました、持ち上げておけば良い様なふりで、すごいですね!的な事をいうといとも簡単に実は先生はああやっていいたが本当はこうするのだとか、本当はもっと後から習うのだがと言いながら、様々な関節技や急所技を教えてくれたものです。  
 そこで習った大東流の技と言えるのかどうかは疑問符も付きますが手順や大まかなやり方は沢山先輩から習いました。またその当時本来の講師の先生が数か月も来なくて、代理の先生ばかりが来られていました。道場や流派によれば先生から直接習う事は無くて、先輩などから教わるのが当たり前の所も有る様ですが、さすがにカルチャーは違うと思って先生からも手ほどきしてもらえるモノと思っていましたが、数年間通いましたがその間に、私もさぼり勝ちでしたが年に数回しか本来の先生に出会いませんでした、その後さまざまな事を知れば実はその方が今となっては良かった事がわかります。様々に問題有る講師だった様です。
 私はとにかく普通の武道の町道場の様にその先生に入門した訳でも無く、そこの組に入る為盃を交わしたわけでもありません。まあ、現代ではそこまでアナクロ的な行事をしない所も多いでしょうが、やはり武道というのは一つの組織、大家族になるようなモノなのですから、本来先生は全ての稽古生、弟子を自分の子供の様に育てるつもりと、わけ隔て無く年齢やレベルに合わせて真摯に指導すべきが正しい姿勢でしょう。逆に弟子や生徒は先生を師と選んだならばその様にふるまうべきが正しいでしょう。ただし師に誤りがあればそれは正すか、そこに反省や是正が見られなければ見限って、親子の縁を子供側から切るのも致し方ない事でしょう。
 これも話がズレますが、小説や教育の場では武術の達人や高段者になればなるほど、人としても磨かれ人格者になっていると世の中が勘違いしている事です。確かにその人だけをとりあげれば体にシンドイ事を継続したり、時間の制限の中で他の楽しみを抑えて、その道を磨けば何らかかの成長は促される可能性は有ります。似た世界でスポーツの成功者を見ても分かるでしょうが、他の世界より人格的に成長しているのは一握りに見えます。
 中には勝つと言う事に拘泥し、外面だけ良くなりその世界の技術は上達したりしていても、人としての精神的な中身は単に姑息になっている者も多くの人は見聞きされていると思います。
スポーツや芸能人では多くは、一度人気が落ちた時や、何かしらアクシデントが有り頑張り、その後に精神的に成長されている方は見掛けられます。
単に人気が出て売れたり、試合にのみ勝ったりした当初は自分の力だけを過信し、引退後などで他の世界で頭を打った時に、初めて周りや家族や多くの関係した人に感謝の気が生まれるのはマシです。
 人気が落ちた時にも他者を恨んだり、妬んだりする、全く精神的な人の成長の無い者も居ます、武道、武術では天狗に成った者や俺が本当は一番だなどと言う、精神的な幼稚者は山程居ます。武道、武術、スポーツの成功者で人格者は少ないと考えるのがあるいみただしいのかもしれません、必ずしも狭い世界で磨いていると人間としても磨かれたり精神が成長しているのとは別次元の話です。
 この様なことから、武道やそれ以外の世界に於いても、ひと昔のアナクロ的な師弟関係は肯定しません否定もしません、それぞれが自己の考え方で人として当たり前の関係性を築くべきでしょう。
良い指導者は大事な部分は大家族の気持ちを持ち、公平に接し、それぞれに合わせた指導は必須と考えます。
逆に自分より先輩諸氏はその道の先輩としては敬する必要はありますが、自分が追い越している部分が有ればあえて異なり論を戦わせはしないという事が大事でしょう。滅私奉公的な上下関係は現在では不要でしょう。しかし人としての礼儀は大事な事はいう迄もありません。
 自分が先輩の立場や指導側になった時に、継続して指導を受けられる方は年齢が自分より下の指導者の方でも年齢親子逆転のつもりでしっかりと技の指導と気に掛けるつもりは必要だと思います。その人たちを大事に思えば、技の指導、体の健康、心の成長、などに寄与出来る事が大事だと考えています。他者を傷みつけたり、俺の方が強い等の猿犬根性は無用です。
 私の考え方が必ずしも正解とは言いませんが、やはりお互いの体を借りて稽古をしているのですから人としての敬意を払いながら行いのは当たりまえ、稽古場を離れれば互いに最低限の礼は必要で、また年齢が逆転する事もあれば当然社会的な経験を沢山持たれています。その別世界に対しての敬を持てなければ人としてダメでしょう。武道とか武術とかスポーツでは往々にして精神修養も伴っている人と全くその世界だけにのめり込んだ職人気質の人と、そこに商売や金儲けが絡んだ興行や商業スポーツの場合などでは精神が幼稚で人として成長がほぼ見られない者が混在しています。
 武道の先生では残念ながら職人気質や場合により幼稚過ぎる、人としてダメ人間も存在します。よくよく技とは別物と心がけましょう。技が上がれば精神も上がるは幻想です。
 その逆の精神性があがれば技には深みや高みが出てくるのは確かです。先に高い精神性や心を磨くのは人生に於いての宝になります。逆に心をおろそかにして技や体を磨いてもどこかで衰えなどが来ると惨めに後塵を拝する事になります。
 武道の世界は良い意味で同門は家族です。人としての慈しみや尊厳を持つのが正しい方向性かと、強さ上手さのみを求めるのは格闘技だけの世界ではと、折角やるなら人としての成長に寄与出来るのが良いでしょう。