よく武道の師は絶対的に一人と言いますがこれも作り話しの様です。 | NeoMackey_ITpro&古武道のブログ

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よく武道の師は絶対的に一人と言いますがこれも作り話しの様です。
特に明治以降から昭和において、最もこの様な一見倫理的にも道義的にも正しい様な話しがまことしやかに伝えられている様です。
明治大正昭和にかけても様々武道の名人は出てきました。かの柔道創始の嘉納氏は起倒流、天神真楊流、その他の柔術を研究、整理して近代柔道を成立させています。合気道の植芝盛平氏は大東流の技法を整理、抜粋しているのはあきらかです。また大東流の武田惣角師もそもそも剣で身を立てる事を目的として複数の剣術流派から理会を深め、武芸百般を研究し学び、それを柔術に活かして大東流合気柔術を成立しています。これらの事柄からも、彼等の師が1人では無い事を表してます。
 また、同門でも弟子の優秀をみてとった時に、自分より優れた兄弟弟子に紹介したりする例も見られ、自らの限界を認めた者は有望な弟子に他師を紹介します。そもそもですが江戸時代以前に成立した、様々な各種流派は師が許して暖簾分けの様な新陰流もそれぞれな発展も有り、また武蔵や小次郎の様に勝手に新流派をたてる例も枚挙に事欠きません、一流の建て方にはそれぞれですが、この例から考えても師を変えていったり、新しい流派に入門してそれを会得できたら、中には自己満足で勝手に会得したと早計する者もいたでしょうが、兎に角武道の師は1人だけで一生着いて行くはナンセンスな論理でしょう。
  明治以降に何故この様な、建前が出来上がったかを少し考証すると、武士や武道で食べられ無く成った者達があぶれたと思えます。剣を使える時代は去り、かと言って銃や火気等、近代武器に精通出来ていない元武士達には、生活の為の糧が必要だった事は明白です。平たく言えば武芸をどの様な形で売物にするかの問題が切実で有り、あるものは武士としての知識や読み書き算盤の事務的技術を指導して糧にし、ある者は殺活の中の技法の活で整体師、骨接、等々の町医者の様な仕事を行う者もいた様です。江戸時代にさかのぼっても既に武士の数があふれており、浪人や家が有っても部屋住まいもかなりの数いたとすると、少々の武芸ではそれだけで生活の糧とするのは難しく、中には大道芸の形で武術を見世物にしてその日をしのいだ者もいる様です。中途半端な武術技量では、他者から糧を奪うやくざ、盗人まがいになるとかの非道に入る者や、様々な分野の用心棒で糧を得るという者も存在したようです。武術だけでこの世で生活の糧とするには厳しい状況だったと想像されます。明治以降にも同様の事が考えられ、武術指導や武芸者として明治以降に何々流とかで看板を上げて生活の糧とするには、様々な道徳的で精神的な規範を上げると共に、実際問題としては生徒の確保が重要事項となり、簡単に師を変えられては困るのが本当の所です。その辺りの理由に様々都合の良い論理をくっ付けたのが師は変えては成らないとか、二師にまみえるのは不徳で有る論理をもたせたと考えるのが妥当な所でしょう。
 そもそもいつの時代でも徳川時代あたりに於いても、武芸で生活の糧とするとか一生の仕事にするにはかなり厳しい部分が有ったという事です。ましてや明治以降に於いて、古臭い剣やその他の日本の武道、槍、その他武器で一芸とするには難しい話です。
 格流派や技術の研究をするのは大事でそれを極める事は体を鍛え精神力を養いなどに於いては役立ち、武術の技術を磨く事に意味も有り、心身の成長に寄与すると思います。ですが生活の糧とするほど金儲けようとすると、大きく本道を誤る可能性が有ります。既に戦闘の技術としてはそのままでは通用しない時代です。洋の東西でも似た現象で、武術、武芸でお金儲けをする事を行うと本筋を見誤る事となります。所謂見世物芸の類となりショービジネスとして脚光を浴びようとすると本筋の武道からは大きく別物となります。ショーは素人受けをする別物でしょう、これは武道とショーの優劣論とか別次元の話で、ボクシング、レスリング、等に代表されるショーと生死を掛ける事が前提の格闘術とを比較する事に無理があります。特に日本の武道は技術を高める事の中に精神を鍛え、人間性も高めるという事を内包してきていたので、教育や人間形成の一助として利用されてきています。他の学問や技術と同様で師が1人だけで有る必要性は低いのです。ただし逆に自分勝手に未熟な段階で、勝手に理解したり次の段階に進めていると身勝手な低レベル判断をするのは正しい道ではありません。このあたり幼稚な自己満足や自己判断と混同するのは正しくありません。所謂、一人よがりの天狗状態や形も身に着けていない状態の型崩れは全く意味を無しません。スポーツ得意者が陥る過ちです。
 現代においても武道とか武道家という呼称の中には、ビジネスとして武術をショー化している者や、格闘技をルールで縛ったゲーム化した物を見世物としている物が多数あります。それらと武道として純粋な精神修養と健康の為の身体造りをしている事を混同して話すると、おかしな理論がまかり通ります。
 プロと言われているスポーツも格闘技も全て見世物のショーの部分を抜きに語る事は出来ません、ルールを設けその中で様々な見世物と楽しむのです、当然生活の糧の延長なのでその為の身体造りには勝負事や見せる為に健康を害する部分を含んでも致し方ない事です。そういったショープロとは別の真摯な武道の道とは、現代では武道と呼称しても全く別の世界となっています。江戸時代前までは武道家を同時に戦士でも有り、格闘家でも有り、政治や社会に直接かかわる、官僚や政治家でもあります。
 ですが現代は武道家と格闘家とショービジネスマンは別物です。同時に師は2名以上あっても武道家にとって全くおかしな論理ではありません。