武道以前の問題で攻撃されれば守りましょう! | NeoMackey_ITpro&古武道のブログ

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武道以前の問題で攻撃されれば守りましょう!
受け役も無防備はあり得ません!
大東流系では最初に捕手の一本捕りを習うと思われます。この形は、現代からはかけ離れた、剣が主たる武器として使用されていた時代が前提とされています。剣術は戦国時代も含んで江戸時代までは日本国内で武力による闘争が明け暮れていたとされますが、その様な時代は長物、槍、薙刀、などが主戦闘具で、飛道具の弓、鉄砲が併用されていたと見えます。兵法者や著名な剣術各派もそれなりに活躍されていますが、兵農分離が定まらない時代は誰でもが剣のみを修行するには無理が想像されます。剣術も飛躍的に技術も思想も発展したのは江戸時代でしょう。我々が多く行う形稽古はこの時代を概ね想定して、その理合いの習得が護身術にもなり、無駄無理の無い体の使い方を目覚めさせ、それが通常の日々に使える体となる事が健康にも寄与出来、日本人の智恵の集大成の技を深めていけば達人にも近づけ知的好奇心を刺激し精神的にも良い事でしょう。丹田の訓練や技の稽古を進めると、様々な身体の潜在能力を高めて行く方向にも成り、個人の資質によりいわば超能力的な能力や第六感の向上もある様です、動物の持つ事前の危険察知や地震の予知的な事も身を守る意味から高まるのかも知れません。
 さて、この剣の稽古法は個人修行として行えばさまざまに良い効果をもたらします。ですが対人相手の直接人と人が触れ合う所にも、大東流の妙技が含まれていて、多面的な要素が磨かれます。平たく言いますと、剣の修行だけでは合気や合気柔術の術理には到達しません。
 話し戻りますが、最も最初に習う一本捕の形では、いわゆる剣で握り方が右手前で振りかぶり、顔面の正面を切りつけられた物を相手と同じ右手の太刀か小太刀で受け止め左手にて肘を制し、相手をうつ向けに倒す技法です。掛け手の細かい技法は伝承や初伝、中伝等により、様々解釈が有りますので、技法に関しては別機会に譲ります。素手で概ね右手で正面打ちをされると、これを右手の手刀で受け止めながら肘を制し、初伝では右手で当身を加えひるんだ隙に右手手刀と肘を制して相手をうつ向けに押し倒すと言う手順です。
この時に例え稽古とは言え、受け手は最初の一撃もかなり隙だらけに打ち込み、その後は、場合により押し込みもせずに、全く無抵抗に等しい動作をする流派や稽古場が多数見られます。稽古と言う前提ではある程度の申合わせが有り、全く自由に何でも有りの反撃をするのは形稽古から大きく逸脱しますが、例えば受け止められた後の当身も相手に打たすのが当たり前のように無防備に腹部を打たせて居ます。ここまでになると流石に武術や武道の稽古とは言い難く思えます。超初心者、子供、武道とは全く今迄無縁だった方への全体像を覚えていただくのにはこれでも良いとも言えます。
しかしながら、少なくともその当身に対して、自己の体を守ろうとするのが、防御反応としてはごく自然だと考えます。前述した様に、古武道の発展時期を想定すると互いに小太刀、短刀、鎧通し等の刃物を複数所持していてそれで敵を刺すと言う行為は当たり前に想定内のはずです。ですから受け手も空いた左手にて相手の当身がもしかすると刃物で有れば払ったら、防いだりする事は至極当然の行いです。
その当身を払う等の行為をしてはいけないと教える指導者も存在し、その意味を深く説明出来ずに、形稽古だからとか、そんな事していると正しい形や理合が理解出来ないと話している様子も見かけます。これでは必ずしも正しい指導とは見えません。
 当身を防がれるのは当身の仕方が下手なのか、当身も当然理合が存在しますのでその理が形の中で形骸化しているかでしょう。当身の入れる部位に誤りが有るのか、はたまたその他の何かの動作が著しく欠落しているか、何らかの理由が有ります。
ここで一つの前提は、物凄く反射神経が人並み優れた者や動体視力が常人離れした者までは、この初段の段階の攻撃者、受け手には含まれては居ません。幼稚な理解者は技や形に万能を直ぐに求めますが、修行者にはあくまでも点数で言えば及第点の六割から七割程度を先ずは求めています。形には深い意味がそれぞれに含まれていますが、あくまでもその流儀を習っている者達の教科書であり、記憶の為の参考書です、門外漢がその形だけを表面だけなぞっても余程の能力が無ければ秘伝を会得する事は出来ません。ですので当身一つ取っても流派の者でも浅薄者では理解していない可能性もあり、申合わせでも、形稽古でも、何らかかな効果を意味しないと形骸化した形で、それは無意味な稽古です。
 受け手は簡単に払えるならば払っても良いのです、ただし前提は相手が何をして来るか分からない事が前提ですので、次に当身の手が出てくるのが分かっているからその手をじっと見つめていてその手が動いた瞬間に払うのは駄目です!
 これは既に取られている肘側の意識が完全に欠落していて、形の手順の先取りの意地悪なのでこれでは形稽古の無理解です。あくまでも取られた右手でもまだ切り付けて行く気迫も有り、その時に相手の当身の手が余りにも遅くて見え見えで防ぐ余裕があるなら防げと言う意味です。先輩が後輩に自己の優位を見せ付ける為の様な行ないでは全く意味が異なり禁物です。この様な行いで先生風を吹かそうとするのは全くの小心者の非難されるべき行い者です、生徒はこの点間違わない様に、この様な指導者は失格者です。人としても尊敬に値しません。習っても何も残りません。
 ここでは捕手の当身の工夫も必要で、伝承されている様々な話を思い出しながら行うべきです。例え捕手が先生でも自らを隙だらけにして自らの体をさらす必要性は皆無です。隙を作るのは捕手の工夫に寄らなければ武道には成りません。
 一部の脳味噌筋肉タイプで喜ばれる諺では、攻撃は最大の防御とも言われます。時にはそれが当てはまる事も無い訳では有りませんが、我々が目指す上級武士の武道は、簡単に傷つけられたり、大目的の為には一か八かの様な賭に近い物は良い方策では有りません。出来る限り自分は安全に相手を制する事を上級と心得、無防備や猪突猛進的な攻撃を避ける方策をしましょう!
その為にも常に守るべき所は守り、例え先生格から習っている時でも、無防備は禁物で自己の身体を守る動作を行いましょう。
守ると言っても、稽古時に逃げ回るのも意味が異なり禁物です。逃げる受けは武器が有れば背を向けるだけで致命傷なのですから。合わせ稽古ばかりやり過ぎている人々に直ぐに崩れたり、逃げたりが見掛けられますが、まだ押し返せる状況では逃げたり倒れたりしてはいけません。これも受け手はやられ役では無い事をしっかりと認識して置かないと、間違った仲良し稽古に見られます。
 乱闘や何でも有りの乱取りでは無いが、常に身を守りながら稽古をしないと、現実には有り得ない形骸化した武道でない、畳の上での、単純な体操やダンスになります。体操、ダンスをダメと言っているのでは無く、武道では無くなると言う意味です。