合気の技術に関して様々論の一つ | NeoMackey_ITpro&古武道のブログ

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合気の技術に関して様々論の一つ
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 昨今はネット等の発達で誰でもが好き勝手な発信をできます。それは特定の偏った政府や独裁者などが検閲して出す事よりは素晴らしい自由な文化でも有ると思います。しかし自由であれば、そこは玉石混同で有るのも仕方無い面が有ります。若しくは自分ではその時点の理解の範囲で悪気無く、浅薄で稚拙な事を発信してしまう事も有ります。子供が出しているのなどは微笑ましい所も有りますけれどもね。
 大人がこれら情報を、その本人から発信しているのは、様々理由でしょう。本当に大事な事を共有しようと言う善意、単なる目立ちたいだけ、再生回数を稼ぎ金儲け、中にはお節介に自分の理解が最高なので他者に知らしめないと駄目だという様な本当は雑音の情報発信等も多々見られます。
 古武道会や合気系武道の中で合気は、かなり扱いがキワモノ的でその解説が様々あり、オカルトチックな事から、逆に超簡単な物理学的な話し、中には自分の出来る範囲の運動力学や運動論の範囲で説明される物も多数有ります。
 このどの分野でもかなり研究がされており、研究熱心である程己の能力範囲内の技術に落し込みたくなるようです。要は自己過信者程自分の理解の出来る範囲や自分の出来る事のみを信じ、そうでない事は絵空事だと言い放します。 
 もしくは他の要因、前提でも良いですが、かなりの制限の存在する状況でのみ、ある現象で実際には使えない事柄になったりします。例えば催眠や忖度の賜物や洗脳の様な話に落とし込みたがります。なので概ねの現代の武道家や格闘技家は合気は無いと言う話から、合気は実際の武道としては意味が無いとかで、兎に角その様な自分達に使えない、理解出来無い技術は認めないと言うのが大勢の気がします。これは同門、同会内においてもその傾向は大きく、合気は柔術の先に有るとか、巧妙な柔術を合気と称されている者も多数です。柔術技術と合気は同一線上には有りません。柔術を高め過ぎると合気から遠ざかります。
 合気は武田惣角が発見したのか発明したのかの論がありますが、おそらく日本古武道にはある程度存在しており、彼が明確に細かい技法を発見し、どの技の中にでも使えるレベルまで昇華発展させているのではないかと思われます。その弟子筋の植芝盛平師が合気道を名乗った為に、合気は植芝盛平師の専売特許的で、またその高弟達が合気を全て使いこなせていたと錯覚されている誤解もある様に見えます。
 まず合気を理解出来る人、合気が使いこなせていた人、合気の概念がわからず使いこなせていた人、合気が殆どわからず時たま使えたりしていた人、合気と言いながら柔術のみの人、合気と言いながら簡単な関節技止まりの人、この様な人々が様々な会派でも同門内でも、修行年数の長短によらず混在している事が、合気理解を輪に掛けて混乱させています。外見から見た目に解りにくい力や崩しを全て、これが合気だと発言しているからです。物凄く広義ではこれでも良いのかも知れません。
 また、どの分野でも自分の師が一番すぐれていたと考えたいのは人の世の情の世界では仕方ありません。師のマイナスな話は無かった事にしたがり、出来るだけ聖人君子として扱いたくなるのでしょう。なのでそれぞれ弟子は自分の師を最高で技術のみならまだしも、人間性、人格、はたまた他の能力、知性、経営能力、道徳、その他、諸々まで最高にしたがるので話を混乱させられています。
 植芝師の創設した合気会の弟子達の一部では、合気は植芝盛平師の神憑りにより発明した物の様な説明もされます。この様な思考パターンは、例えば様々な国が認めたくない事実を信じる事無く、夢物語的に自分たちの国が素晴らしいとか祖先は高潔であったとか、事実を捏造して子孫に伝えたりする例を見れば、余りにも稚拙なのが理解出来ると思われます。すみませんこれは植芝師を否定しているのでは有りません、次元の異なる事をない混ぜにすると技術論が歪められるのでは無いかと言う話です。
 私の学んだ琢磨会は武田惣角師、植芝師の両師範からの様々な技術が伝承されています。ですので先師の久琢磨師の師でも有る植芝師からも多数の技が伝えられております。合気は武田惣角師がかなり使いこなせていて、植芝盛平師はその一部の技術を会得されていたと解釈する方が理解は正確になります、その技術や師恩とは別次元で評価すべき事です。
 前提条件として筆者は合気を有る程度理解してそれが実際に出来ているという事で話をしています。この時点で筆者が天狗になっているとか、本当にお前などに合気が解ったりできたりする訳が無いとか、武術家としてや格闘家として、大した実績も名声も無いのに、俺達名高い武術家や格闘家の自分達の方が強く、もし戦っても俺達が全てに勝っているのだから、その俺達にできない事が、大したことのない普通の社会人や、他者に出来てたまるかとか、出来る訳が無いという事から、こちらの話を聞いていると、全く技術論にはなりません。
 誤解されるといけませんので、筆者は武道の達人でも有りませんし、格闘家として他者より強い云々の話をしているのではありません。合気という技術のみで論をしています。子供論理で誰より強いとか凄いのだとか、名人だとかそんな低レベルの論を交わしているのではありません。あくまでも合気という技術のみに関しての話をしています。合気の定義や合気という言葉の表す技術の範囲をどこにするかで、合気が出来る出来ないの話がまた異なりますが、かなり狭義の相手の体に刺激を与える技術での崩しを指しています。いわゆる当会の総務長森恕師の説明範囲の合気です。
 世の中の武道家の話を見聞きしていますと、広義の合気は崩し全般です、最狭義ですと体のどこか一部のみに合気ポイントが有りそれで技が出来ると言う論です、ちなみに私の師匠の森恕師の合気の説明はこのかなり狭義のしかも相手の反応のおこりを合気と呼ばれていたので最も狭義の合気と考えています。
 物理的な力を感じ難いと言う事から、接触点より遠い力を使う系統の力中国拳法系統の勁力を合気の力と称されている所もある様です。それが単純化した考えで伸筋を使うのが合気だと述べられている方々も多数居ます。これは合気とは呼べない別技術です。武田惣角はこの様な技術は使って居なかったと想像出来ます。
 筆者の説明する合気はそこまで小さい狭義でも、物凄い広い意味の崩し全てを合気と称する事も指していません。相手の体に触れたりする事で起こす様々な反応の内、特定の場所が師の説明はかなり狭いポイントのみでしたが、もう少し広い部分でも同様の現象が発生します。
 ビデオ等で確認すると植芝盛平師の合気技は一部、特に小手先からの技術は特筆出来る程見事ですが、体の使い方や足捌きが日本武道独特の物が身についており、全てが合気とは言い難く、広義の崩しを含めて合気と称されていたと見えます。誘いの技術、入身のさばき、体転換の強さ、等が特筆されるように思います。
 全ての武道家のビデオが残っていないので明確には答えられませんが弟子の塩田剛三氏も同様の小手の合気は明確に使えておられ、特に姿勢と小手の形からも明確にみとれます。ただ投技や入身に関しては剣術からくる、合気とは別の技術を体現されているような風に見えます。この様に植芝師、塩田師は合気も使えたがそれ以外の日本の古武道で伝えられて大事にされている、様々技術を同時に使われるので、研究者や後発の者には、合気とは何かと言う論ではわかり辛いと考えます。
 小手の合気から、胸取り、後捕まで写真から見える合気は久琢磨も姿勢や体の捌きから会得されていたと見えます。兄弟弟子の中津平三郎師も小手の合気や胸取り等の写真からはあきらかに合気が見て取れます。受け手の踵の浮かし方やバランス取り方が自らの意思や、忖度で無ければ捕まっている手に荷重がかかっていません、受け手は踵を自らの意思で落とすのも容易です。姿勢や体の力の入れ方を見れば外見からでも合気と忖度は判断出来る様に成れます。
実際には合気を会得されて居ない柔術家の合気と称している様子を見ると、受け手は荷重をかけられるにもかかわらず、忖度で力をかけないか、もしくはバランスを取るために調整している他者とのバランス運動が見えます。この手の似非合気家は、柔術としては成立している技術を合気と柔術の差が気が付かない浅薄者でしょうか、残念な事に柔術家としてはソコソコ鍛えておられ、武術家としてはそれなりの物を形成されている人も中に居ますが、合気だけは平たく言えば出来もしないのに口先だけの偽物です。
 また合気を感覚的な研究からか、軟気功や内観に入るような、内観の間違った方向に進んだ様な妄想の世界やオカルトチックになり過ぎた者達は、催眠や互いの物凄く小さな感覚の内観を誇大な解釈により武道と程遠い世界で自己満足の境地に入られているケースも見受けられます多くが間違った気功療法や様々な霊や神憑り的な思考と混同されるようです。ここでも筆者は神仏の存在や霊的な事を否定はしていませんが、それはそれで別物です。合気と言う武道の技術とは違う、直接的には関係無いと言う意見です。
この系統の合気と称している方々の受けの方々は倒れもしない方向に倒れたり、師の動作より早く飛び跳ねたりする滑稽な様を呈します。
合気の技術が修験道や禅宗系統の法力などの目に見え無い力に求める人も居ますが、この辺りの関係は昔の武術家が心身を鍛え、潜在能力を高める行として行った事が誤った形で伝聞されているのでしょう。合気の発見に至る過程の修行で様々な世界の鍛錬法や方策を武術家が流用し心身を鍛えてその結果潜在能力が高められて発見した可能性は有ります。
 武道家や格闘技家の中には何がなんでも俺が一番で無いと気が済まない幼稚な精神を持つ者も多いようです、常に高みを目指すのは良いのですが、自分には到底できないことを成し遂げた人を素直に称賛できない人達です。
この類の方々は、どんな人なんだろうと観察してみると、ただの天の邪鬼(ひねくれ者)なのか、又は他者を落とすことでしか自らの肯定感を得られない不幸な人生を送っているか、必ず他者を本当の意味では褒めない人が多いようです。そしてその様な人々は文章などを書かせると、稚拙で表現が汚なかったり、他者を否定するのが特徴として見られます。冷静な分析や理論性が乏しいのです。
 さて、本論の合気の技術ですが、具体的には普通の人間や、単に運動神経が良かっただけの者に、直ぐに習得できる物では有りません、しかし誰でもが合理的に心身を鍛える様々な鍛錬を行えば習得可能な技術です。当たり前ですがその技術習得の結果は巧拙や精度の差は存在し、その中でも得意不得意の分野が存在し、体のどの部分に効果を及ぼすかは様々な形となります。その合気を会得する為の要素としては、所謂日本的な武道の修行は必須です。
 次の事を精神論だとかまどろっこしいと感じている者は日本武道としては基礎が全く出来て居ない事になります。
 まず、日本人的な生活様式が無理無く身についている必要が有ります。畳での生活の世界が身に付いているのは、敷居をふまない、座布団の上に立たない、礼の姿勢が正しい、礼法や立ち居振る舞いが日本人的で有ると当時に武家や武士を考慮に入れた形が身に付いている等が必須です。
 これらがまず一番土台に成る要素です。若しくは機械化されていない生活で自ずと磨かれた身体の基礎訓練の度合で、武家の足腰の鍛錬と姿勢保持が出来ている事が代替する基本の体になりうります。漁師のバランス、農家の足腰、等がそれに相当します。
次に日本武道の主たる部分を担う、剣術の各派に共通する鍛練や体の使い方です。これらも頭で無く体で理解するには、浅薄レベルでも3年から5年はかかります、その理解度を高めるには、継続した鍛練と飽くなき考察力が必須です。
 その上で小手先の、適度な柔術技量の分析が出来ていて、同種の方向性の有る同門と練り上げれば初歩の合気の会得に近付きます。合気に近付くのは、柔術の考え方の頭を横に置いておき、近代西洋的なスポーツ理論とも別物扱い出来れば、合気や古武道の思考はもう一段階深まります。
 他者で、ネット上に出て居る、ユーチューブや他流派が合気揚げと称している、鍛錬法や技術はそれぞれ全くの嘘では無く、ごく僅かに様々な技術を併用しています。完全なる合気ではありません、合気柔術と呼ばれる柔術技術では小技として合気要素を技に使っています。しかしその全ての柔術論を利用しても合気の技術とは別物に成ります。平たく言いますと小技のみで合気と称するのは片腹痛い事になります。
 それぞれに工夫も有り、中には柔らかさとか、丹田を練る、日本武道の共通要素が使われており、それも必要ですがそれだけで合気習得には至りません。
 若干、修整しますが他の日本古武道には、同様の鍛錬法が本来は残っていた様ですが、スボーツ化された時に、近代化を急ぎすぎて大事な要素まで切り捨てている可能性が大です近代武道の表にスポーツで紹介されている方法には合気の道は皆無です。
 この様な近代的な運動能力や身体機能の向上をはかっても合気習得には直接関係有りません、スポーツとして能力を高めたり、いわゆる試合に勝つには、逆に必要な要素がこれらの論にはある様です。
 本当に合気が表層的にでも使いこなせていないと本物が語れません。ユーチューブやネットにこれが合気と出てる物で、明確に合気が見て取れる物は有りません。全て合気上げと言う技術の一端を表している程度で、合気とは呼べるにはかなり遠いでしょうか!
 次の段階の合気への鍛錬は、次回編で!
まとめは、正しい武士の正座、そこからの抜刀、納刀で癖のない体つくり、上半身の脱力、腑抜けのコンニャクの様な体では無い、腰から下の醸成、特に丹田力、肚の力を師から教わりながら鍛える。これらにヒントは有ります。