あくまで私見ですので!
御信用之手というのは、様々な伝えや、本来はこうと言われる話がありますので、必ずしもこの説明が正解とも言えませんが、一つの考え方です。よく言われるのは護身用の誤字脱字、もしくはあえて異る文字を使い他門外漢から盗めれない様にすると言う意見です。
今回は御信用之手の文字は合っていて、試合技の意味を取っています。
命をかけた試合や実戦において自己の技の活用に自信を持たせるという意味です、いわば真剣勝負必勝の技という様な意味と成ります。
具体的には、初伝などの手順では一部省略が有ったりします、逆に言えば良く他武道の目から見ると合気系統は受けも捕も隙だらけだと言われる批判はこの辺りからも出てきます。
ただし、見え見えの隙だらけは形が何かしら変容しています、正しい形稽古でもこの時は隙が有るのでは?、と思われる部分が有ります。
これとは異なり隙だらけの、よく見られる形は、所謂現代武道の合気道の受けがこの極端な例と言われています。私が言ってるのでは無く他の武道経験者から指摘されると言う事です。
これはおそらく、植芝盛平師の形が特に晩年に完成し過ぎた面も有り、その名人の外見上を追いすぎ初心者からその形に拘られ過ぎたのが、その一因かもしれません。植芝盛平師は様々に、一見しては武道家で無いと理解出来無い、誘い、呼吸、読み、等々が確立された状況が写真等からも見て取れます。そう言った各要素の訓練、鍛錬が有る土台での技の成立です。もしくは後輩の方々が理合の探求方向に行き過ぎた面が有り、例えば横面一つでも、横と言う言葉に現代人が解釈を単純化し過ぎ、腕を横に振り回す形にまで単純化され過ぎて、技もその極端な力の方向性に合わして変化せざるを得なかったかもしれません。物理学的等からも考えても真横からくる力と斜上から来る力に対しての対処法は異なって来ます。
古の術者は斜上から来ても、横気味から来ても何方でも対処されていたのでしょう、それが代を得るごとに、土台の鍛錬法は疎かになり、道場上だけで形だけの技ばかりの形稽古の量が増し、横面一つ取っても真横に腕を振り回す、剣の攻撃からはかなり遊離した形に、それに対処される技の状況に陥っているかもしれません。その上に厄介な事に先人の名人級が辿り着いた、古流等では口伝やコツに相当する、円転の理や入身転換等の言葉の表面上の意味が公開され過ぎており、独り歩きし、大きく腕を横に振り回す力にその力に逆らわないで、自分も一緒に回る、単純化されたダンスの様な技が構成されてしまい、その上に何時しか受け手が技を施す者に合わさないのは、受け手も合気が理解出来ないとか、気の流れを会得出来無い等の詭弁と忖度の塊の様な話が構築されていき、互いに武とはよび難い物がなされているのかもしれません。
語弊無き様に他界を否定しているのでも無く、中には鍛錬法を何処かで補い武道としての身体を構築されている方も居られるとは思います、ただ多くは武とは表面上だけで、健康法や一種の宗教的活動に偏られているのは外見からも否めません。
さて、前置が何時もの如く長く成りましたが、本論として大東流に伝えられている初伝の技は、ある部分稽古の為の稽古や、流派の身体造りの基礎の動きを教えています。そのままでは実戦的て無い事も有ります。初伝の指導時は時々当身を省略された動きや、硬い当身(古伝の甲冑時)を指導している事が有ります。いわば無条件に体が攻撃の形から反応してさばきや手足が動けばそこに追加する当身です。
例えば一ケ條の技で入身転身と同時に当身を施して終了するとか、ニケ條、三ケ條、四方投、入身投など等にも、それぞれ固有の御信用之手があると考えます。
それぞれに当身や崩しをしっかりと取れれば厳しく効果的な技にどれも成ります、本当に基礎が身に付いていないと、その本当の術理は理解できないので、秘伝奥義との解釈に成っています。
単純な殴る蹴るの当身では無く、見え難い、解っていても避ける、手を出してしまう、等の工夫が入っているのは説明するまでも有りません。
初伝プラス当身の形と、元々から御信用の手として伝わっている形と両方有ります。