伝統とは形を継承することを言わず、その魂を、その精神を継承することを言う
嘉納治五郎
受け売りですが、我々古武道の形稽古につながると思います。
形稽古の意味も、浅い意味では実戦のよくあるケースを抜粋して標準化した様な説明を聞きます。これも間違いなく一面では真実でしょう。
ただもう少し深く考えると、形稽古はその流派の動きの基礎を身に付ける練習と考えられます。繰返し繰返しその形を真似る事により、無意識にその動きが出来て、反射神経的と言うか脊髄反応のように体が動く様に、朝鍛夕練をしなさいと言うことでしょう。
ただここで形稽古をしっかりと考えて検証もしないと、その外見似た形を真似るために、近代スポーツの間違った方向の筋トレをして、素人が見た外見の形を再現する為に、間違った筋肉を付けたり、身体の中の使い方をしてしまうことです、これではその流派の形稽古を結果的にしていません。
また検証したり考えると言うことは、今やスポーツ会で常識です。古武道の世界でもこの手法を活かすのは良いことと考えられます。しかし、浅い知恵と短い自分の経験値からだけで、特に古流と呼ばれている流派の技術解釈するのは、あまりにも浅薄でしょう。
往々にして運動が得意な人生を歩まれた方は、机上の勉強と言うものが苦手だったり致します。そして頭で考えるのが苦手だけならましで、自分の経験値だけが最良最善と疑わない者も多く散見されます。これは身体能力に優れてきた者や、様々な実績を重ねてきたもの程陥り易い話しです。これに根性論や精神論が好きな者が自分の意見に固執すると、今流行りのパワハラ指導者達ができあがります。
武道のそれぞれ練習している形にVersatile万能性をどこまで求めるかと言った事も加味して、形を考える冷徹な目が無い者は、自分だけの中に納めて置けば良いのですが、現代人は自分のお立場や知識経験を横に置いて、直ぐに自分より後輩や素人に指導、本当の意味では指導ではありませんが、したがるものです。困った傾向です。
特に素人にも理解し易いのが野球で、名選手ほとんどお節介コーチ、迷惑監督、が多いので理解しやすいでしょう。野球は技術だけでもまだ成長中であり、ロジックが進化していると言うことも有ります。
かたや問題は山積みと言えども親方が力士を育てるのにはそれなりの成果が出ている事実が有ります。
根性論や精神論の部分は賛同出来ないところも多く含みますが、昔ながらのトレーニング方法には一定の成果が出てきます。一つの流派のように、無条件で身体に覚えさす訓練がそれなりの成果を出します。
残念ながら近代相撲では本場所数も多く、本来体を休める地方場所での半分興業も昔ながらの見せ方では駄目だとか、贔屓筋との付き合いも、変化して、ストレス発散もままならなかったりと大変な状況も否めません。
本題の形稽古はその流派の身体作りが目的と考えるのが私の考えです。そして嘉納治五郎先生のおっしゃる考えと同じかはどうかわかりませんが、古流や、古武道の形は往々にしてデフォルメされて継承されているものも含まれていると考えます。魂や精神です。
これも細かい考え方に皆様から賛同は不要ですよ!皆様自分の細かい論理は自分で、自分の場合発表してくださいね、例えばFacebookでも人の反論で無く自発的な自分からにされて下さいね。(^^;
例えば片手で胸ぐらを掴んでくる形に対処する技で、逆腕捕と称される技が有ります。古参のある人は右手で捕まれたら相手の内側に迫り当て身を強く入れれば良いと主張されます。
また他の古参は逆に相手の外側に避けてから、相手を押し崩して腕を捻り倒される形を主張されます。
この混乱は、古流は正当後継者が指名されてきているはずなので、その人の言を採用するのが本当は良いでしょう。
しかし古参が多い場合とか、自分の教えている事が、基本か応用かも考えずに指導されている者が混乱を招きます。
また嘉納治五郎先生の言は何でもかでも変えて良いと言われているのでは無いのは明白でしょう。
この逆腕捕に近い技法はおそらく多くの他の古流や海外の他の国でも見られるのでは無いかと考えられる攻撃の形です。ですが国によりシチュエーションが違うと考えて、我々は日本人の典型的な形で、しかも静止に近い状態の攻撃を想定して練習すれば良いと考えます。
古流の流派なので受けは本来胸を捕まえている手と反対側の手に小太刀や鎧通しの様な刃物を日本人の典型的な形で切り込む形が良いのではと考えます。胸を捕まえている腕もある程度曲げて、どちらかと言えば引きぎみに力を出して反対の手で切り込む形を基本とすべきでしょうか。
この時の間合が、現代の様に殴る様に近付き過ぎると違う間合いになると同時に体の向きも正対し過ぎると駄目でしょう。
完全に正確では有りませんが、柔道や相撲の方はかなり正対して両手とも掴む位置にいる様に見えます。逆に空手等の方はかなり横に開いて、相手から的が薄く成るように構え、蹴りや突きの瞬間に体を回転して持って来る様な傾向です。
このどちらも我々古武道とは異なる気がします。攻撃は片手、もしくは両手で刃物や刀を持った形が元の形と考えます。そして捕りが力を出すのはその瞬間は、剣の鍛練が主にされていたと考えると正面に向く、両手で剣を構えた状態に近いのが基本形の態勢ではないのかと考えます。
古武道の多くが流祖は様々な時代に遡るが、多くは江戸時代に発展したり残って来ていると想像をすると、我々は日本刀を使う武田惣角なので、この辺りに想定すべきでしょうか。
これに、まだ流派の体や動きが流派から遠い輩が、直ぐに応用の練習や変化技に走りたがる事が形が混乱する要因でしょう。
必要以上に強く押し込んだり、逆に押していたら直ぐに引き込もうとしたりする攻撃方法の練習も意味の無い練習と考えます。
特にこの攻撃の形と手順を理解していない外人や武道経験の無い攻撃意欲が無い形も、形稽古を誤った練習になって行きます。
これは先輩各が後輩に指導する時に似た意味の無い練習、攻撃も手だけとか、力無く攻撃して後輩が手順通りに技を施しているのに全く掛からない、理合を互いに理解しない形稽古の場合も同様時間の無駄でしょう。
もうひとつ考慮したいのが形の手順が継承している内にデフォルメされ過ぎている可能性が含まれていると考えた方が良いでしょう。特に形稽古の形ばかりにこだわる人に見られる傾向です。受け役がどう考えても逃げられるのに形稽古だからといって言って、わざとこけたり倒れたりしている事があります。これも間違った形稽古の弊害でしょう。よく合気系武道や柔術は単なる畳の上で合わせているダンスと格闘技経験者から冷笑されるのはこの辺りでしょう。
形稽古は当然、乱取り稽古の様に激しく動きあっては、その理合の習得もままなりません。しかし全く受けが崩し等にかかっていなくても倒れる練習は白帯の手順をとりあえず覚える段階以外は意味がありません。
ゆっくりでも受けが体勢を大きく変更して逃げ回ると、形稽古は成立しにくい物です。しかしある程度手順を覚えたら次はしっかりと崩して技をかける練習が不可欠です。
ただし、しっかりと崩すの意味は、当て身で本当に殴るのでも無く、力任せに技を施そうとするのでも無く、相手が体勢を崩したら如何にそれをそのままかけるか、もしくはその体勢を戻そうとする事を利用して逆に倒したりするかと言う事でしょう。
くれぐれもわざとらしく倒れたりする練習は意味が無いと考えて、紳士的に相手の身体をお借りして技を研究していることを忘れないことでしょう。
必ずしも古参や長い経験者が正しく無いのは、身近な例でうさぎ跳をする運動部も皆無になり、水分補給の重要性も理解されて推奨されているのを見ればあきらかです。単純なデフォルメされた形の形稽古は疑いましょう。少なくとも技はかけている途中には反撃されるのは何か抜けているか、手順がどこかで誤って伝えられている可能性もあります。
ただし、肝要なことは自分が出来ないテクニックを先輩がされているのが明らかなら、あなたはまだその流派の本質の身体になっていないと言う証です。
ぎゃくに万が一後輩に何かしら抜かされようとも、継続してその流派の身体作りに励めば良いだけです。競うのは昨日の自分です、他人と競っても得るものは少ないでしょう!