識字率99%以上を誇る日本において、義務教育の9年間が果たす役割は果てしなく大きいと思う。

 

学生時代、パウロ・フレイレの『被抑圧者の教育学』を何度も読み返し、彼が実践した識字教育の素晴らしさに触れてから、識字率の高い日本の素晴らしさに感動もしたが、今は、その裏側の現実とも向き合わねばならないと思う。

 

神経発達障(≒発達障害)の一種である学習障害(Learning Disability=LD)や、学習障害の一種であるディスレクシアの子どもたちへの支援はまだまだ。

支援どころか、明らかにその症状がある子どもに、大量の国語の宿題を出す学校(担任)の姿勢に、唖然とすることも多い。

 

識字率が上がって字が読める人が増えても、文章に書かれた情報を読み取り、情報を分析し、取捨選択する力が身につく教育が発展途上のため、子どもの周り(大人の周りにもだが)には、ごちゃまぜになった情報が溢れている。

 

全国の書店は減り、新聞の購読数は減り、人々の文字離れが進んでいると思いきや、タブレット、スマートフォン、電子書籍の台頭で、情報量は増していると実感する毎日。

 

会社の業務連絡も、コミュニケーションアプリやSNSでなされる社会。

でもそれだって、結局は文字が読めない、使えないとできない。

 

そして、小学生から英語の授業が始まった。

 

それ自体は悪いことではないが、小学校で英語を始めるなら、もう少し、日本語を大切にする教育のあり方があってもよいのではないか。

 

中学2年生の時、担任の先生は国語科だった。

 

「この詩、どう感じる?」

 

そう言って僕に見せてくれた詩というのは、島崎藤村の『初恋』だった。

 

わがこゝろなきためいきの

その髪の毛にかゝるとき

たのしき恋の盃を

君が情に酌みしかな

 

難しくて意味はわからなかったのに、五七調で繰り広げられるその詩の美しさに、何度も何度も読み返した思い出。

 

文字とは結局、情報である。

しかし文字が塊をなす言葉とは、往々にして感性を刺激する。

 

だったら、今の子どもたちに伝えたいことは何か。

 

好きな言葉に出会おう。

そして、好きな言葉を大切にしよう。

 

そのための働きかけを問う、大人でいたい。